去る11月18日(火)。世界的に著名なアーティスト、フューチュラの70歳を祝したスペシャルイベントが、東京エディション虎ノ門で開催された。同氏ともゆかりの深いカウズと藤原ヒロシを交えたトークセッションのレポートに加え、フューチュラへのメールインタビューを掲載する。

フューチュラの家族や友人、関係者など、多くのゲストが見守るなか行われたトークセッションでは、ベドウィン & ザ ハートブレイカーズのディレクター渡辺真史をモデレーターに迎え、「Japan Connection−“Why Tokyo Still Matters(今なお東京が重要である理由)”」をテーマに、それぞれの関係性や東京の魅力などについて語られた。
「初めて日本に来たのは50年前。信じられない、もう半世紀も前のことです。知り合いは誰もいなかったけど、街はとてもモダンかつ清潔で『やったぞ!ついに訪れることができた』って感激しました。次は1983年『ワイルド・スタイル』ツアー(注:1)に参加した時。それ以来、もう30回以上は来ています。何度も訪れるのは、日本が非常にインスピレーションを与えてくれる場所だから。今では素晴らしい友人たちにも恵まれ、大好きなこの場所でパーティーを祝いたかったんです」(フューチュラ)
当時、フューチュラ以外にもMCやロック・ステディ・クルーのダンサーなど、総勢36人にも及ぶ大所帯で来日した『ワイルド・スタイル』ツアーに、日本から参加したのが、若き日の藤原ヒロシであったという。
「ツアーの時に、僕がオープニングDJを務めたんですね。多分、フューチュラは覚えてないだろうし、観てもいないはずですけど。ピテカントロプス(・エレクトス)ってクラブでイベントがあって、すごく大勢の人がいたんで彼とも会話はしていないと思うけど、その後に六本木のクラブに行ったのは覚えていますね」(藤原ヒロシ)

一方、年の差が20離れたカウズとフューチュラの邂逅は、さらに時計の針を進め90年代に入ってから。
「初めて会ったのがいつなのか正確には思い出せないのですが、スタッシュ(注:2)を介してだったと思います。もともと、僕はNESM(注:3)とクラスメイトで、彼に会うために東京へ訪れた際、ヘクティックのヨッピー(江川芳文)や原宿のクリエイターの人たちと繋がったんです。その後に行われた東京・香港ツアーで、フューチュラと会ったように記憶しています。私にとって東京は、伝統を大事にして、しっかり自分たちのスタイルを貫いている、そういうところが最も印象的だと思います。そして、その魅力(または本質)はずっと変わらないでしょうね。」(カウズ)

同じ時期、原宿を起点に勃興した“裏原”カルチャーが、大きな時代の潮流を生み出したのは誰もが知るところ。また、エアロゾルアートやミューラルといったストリートアートが現代アートの規範を拡張し、世界的な美術館のパーマネントコレクションに収蔵されるなど、ようやく正当な評価も追いつき始める。その時代の変遷を見届けてきた当事者でもあるフューチュラだが、観客からの質疑応答では「70年代から2020年代までの中で、好きな時代はありますか?」という質問が投げかけられた。
「いまこの瞬間を生きているので、常に未来を考え、バックミラーで過去を振り返ることはありません。70年代や80年代にロマンティックな想いを抱いているわけではないのですが、テクノロジーが個人の空間を支配する以前の世界には、より人間的な交流や繋がりを強く感じていました。私たちが生きる世界がデバイスに支配されていることは理解していますが、テクノロジーの中で人間性を保とうと努めています」(フューチュラ)

この発言をきっかけに、話題は世代間の断絶へと及ぶ。モデレーターの渡辺から「これからの東京に期待することは?」と問われた藤原ヒロシは、「難しい質問だな」と苦慮しながら、最近起こった印象的なエピソードを語り始めた。
「最近ジェネレーションギャップを感じたことがあって、先日、大学生向けに講義をする機会があったんですが、映画『007』の話をしたかったので、観たことがある人に挙手を求めたら一人もいませんでした。誰も観たことがないから、その話もできなくて(笑)。レニー(フューチュラ)とかブライアン(カウズ)と僕だと、ジェネレーションは違っても共通言語があって普通に話せるんですよね。なんとなく同じものを観ているというか。ただ、30歳以下の世代だとそういった共通言語もないし、みんな昔のものにあまり興味がなくなってきているのかなとは感じました」
ただ、彼によればそれは決してネガティブなことではないと念を押す。
「まったく違うジェネレーションが、僕たちでは理解できないことをやっていて、それが格好良ければ最高だと思います。僕らのことは忘れて、そんなの全く気にせず違うところで新しく面白いものが生まれるんじゃないかなと期待しています」(藤原ヒロシ)
藤原ヒロシもまた、1980年代当時は、“昭和一桁”世代から“新人類”と評され(注:4)、けもの道を切り拓いてきたパイオニアのひとりである。権威や慣習におもねらない若い世代が生み出すエネルギーの熱量を体感として知っているのだ。新しい才能が台頭することへの期待感は、カウズもまた想いは同じだ。彼は現代日本を代表する画家、五木田智央をアメリカの著名なギャラリスト、メアリー・ブーンに推薦したことからも分かるように、偉大なアーティストであると同時に優れた目利きとしての一面を備えている。
「日本のアーティストも含めて、新しいアーティストが出てくるのを楽しみしているし、今後、彼らが何を行い、どのように変わっていくのかに興味を持ち続けています。世界中で起きているアーティスティックなムーブメントに対しては、いつも目を向けていきたいですね」(カウズ)

3人それぞれが充実したキャリアを重ねながら自身を権威化することなく、領域やコミュニティを自由に横断して活動する軽やかさ。そして若い世代にもフラットに接する姿勢は模範とすべき点も多い。
「常に前だけ見て、人生をバックミラーで覗くことはない」というフューチュラの言葉は、先駆者らしい含蓄に富んだメッセージであった。
注:1 1983年公開のHIP HOPムービー『ワイルド・スタイル』のプロモーションツアー。西武百貨店、ツバキハウス、ピテカントロプス・エレクトスでのライブイベントに加え、『笑っていいとも!』や『11PM』のテレビ出演を果たした。
注:2 NY出身のアーティスト。フューチュラ、ブルー(故人)と共にデザインスタジオ BSF(プロジェクト・ドラゴン)を設立。自身のブランド、SUBWAREに加え、NIKE、A BATHING APE、G-Shockなどにアートワークを提供している。
注:3 日本のグラフィティライター/グラフィックアーティスト。2005年に水戸芸術館で開催された日本初の大規模グラフィティ展『X-COLOR グラフィティ in Japan』への参加や、NGAP、HECTICなどのブランドにアートワークを提供。
注:4 筑紫哲也による『朝日ジャーナル』の連載「新人類の旗手たち」に、演出家の平田オリザやモデルの甲田益也子らと共に藤原ヒロシも登場している。
【フューチュラ インタビュー】
トークセッションの内容を踏まえて、後日、フーチュラへのメールインタビューを実施。通常、こうした書面による取材の場合、いくつか無回答があることを想定して多めに質問を用意するのだが、すべての質問に丁寧に答えてくれた。

──80年代から40年超のキャリアをお持ちですが、ご自身にとってのターニングポイントとなったのはいつ、どんなことですか?
「ターニングポイントは本当にたくさんありました。角を曲がるように、横断歩道を渡るように。それはクリエイティブとしてのキャリアだけでなく、“人間としての歩み”にも関わることであり、そして後者のほうがより意味のあるものです。もちろん、1984年に息子のティモシーが生まれたことは、私の人生と進むべき方向を決定的に変えた出来事でした。あれから41年、すべてが祝福だったと思っています」
──2026年以降はスタジオでの制作活動に時間を割いて、創作活動に励むとおっしゃっていました。その尽きないエネルギーの源泉は何ですか?
「私は常に自分のバッテリーを充電し続けています。真面目な話、内側から自分を点火して、クレイジーなエネルギーを持ち込み、自らを奮い立たせて物事を動かす──それ以外の方法を知らないんです。50年前、当時の上司たちはよくこう言っていました。『君がもう一人いたらいいのに、君はいつもエネルギーを運んでくるから』と。たぶん、そういうところは今も変わらないんでしょうね。ただ、年齢を重ねながらも周りと歩調を合わせ続けられているのは自分でも驚きです。年を取っているのに、若く感じる。この矛盾が面白いですね」
──SNSの普及やデバイスの進化など、テクノロジーのなかで人間性を保つことの重要性や、人との繋がりの大切さを強調されていました。ご自身はどのようにしてそれを実践されていますか? またSNSやネットの弊害や影響について何か思うところはありますか?
「この半世紀で、私の視点も、意見も、あらゆるものの捉え方も大きく変わりました。今のような“ポケットの中のデバイス”が登場するずっと前からの経験もあって、私は個人的な交流が中心の時代のほうが好きだと感じています。ただ、インターネットと、それがもたらす世界規模のつながりは大好きです。批判的なのは、注目を集めることへの過度な執着、そしてそれが『ソーシャル』でどんな形で表れるかという点です。FOMO(注:Fear of Missing Outの略で、取り残されることの不安や恐れを意味する)みたいなものから少し距離を置けば、長い視点で見て、そうした虚栄心や注目への欲求は取るに足らないものだとわかります」

──イサム・ノグチさんと同財団への感謝を伝えられていました。イサム・ノグチさんとの関係性はこれまであまり知られていなかったと思いますが、詳しく教えていただけますか?
「ニューヨーク・クイーンズにある『ノグチ美術館』をぜひ訪れてみてほしいです。私がそこを訪れたときの体験は本当に素晴らしく、彼の美しいランプ(AKARIシリーズ)に触れたり、さまざまなグラフィックや作品に触れたりしました。トークセッションでも話したように、私たちは誕生日が同じ(11月17日)なんです。それに1980年代初期のチャリティーアートイベントで、彼を含む多くの人と同じ場にいました(そのとき直接会ったわけではありませんが)。─IN LOVING MEMORY(追悼を込めて)」
──日本という場所がインスピレーションを与えてくれるとおっしゃっていました。とくにお気に入りのスポットや、来日したら必ず行うことがあれば教えてください。
「私は本当に日本が大好きです。私は“習慣の人”なので、日本に来るとつい、メロンソーダ、まい泉、ファミリーマート、NEIGHBORHOOD、キデイランド、しゃぶしゃぶ、そして東急ハンズ……あ、今は『HANDS』ですね!」
──トークセッションでは、スケートシングさんへの感謝の言葉がありました。彼もまた「東京」を代表するキーパーソンのひとりだと思いますが、彼とのフレンドシップや現在の関わりについて教えてください。
「来年に向けて、彼と何かを計画しているところです。詳しく喋って“ジンクス”にしたくないので詳細は控えますが。彼はいつも私を刺激してくれる存在で、本当に天才です。完全にぶっ飛んでいて、遥か先にいる。私が彼と出会った頃、自分のことを“磁力の中心にいるような存在”だと自負していましたが、スケートシングと出会って『自分にはアップグレードが必要だ』と痛感しました。あれから25年、今はさらに彼に圧倒されています。“創造性に流暢である”とはこういうことなんだ、と改めて思わされます」

──過去には、DJ KRUSHのアルバムやコム デ ギャルソン・シャツ、近年ではケンゾーとのコラボコレクションなど、これまで数多くの日本人アーティスト、ジャパンブランドと協業されています。ご自身でとくに思い出に残る仕事は何ですか? また、制作時のエピソードなどがあれば教えてください。
「もっとも思い出深いのは、NIGOとA BATHING APEと一緒に作った最初のスプレー缶入りTシャツです。あれがすべての導火線に火をつけた“マッチ”でした」
──ジャンルは問いませんが、日本の若いアーティストで注目している人はいますか?
「HAROSHI。彼のプロセス、作品、色彩は本当に素晴らしいです」
──ここ10年でエアロゾルアートをはじめとするストリートアートの価値や評価は急上昇しています。ご自身や周囲のアーティストの作品が、投機対象になったり、二時流通市場で高額で取引されていることに対して、あなたの見解を教えてください。
「そういったことには、私はまったく関心がありません。“満ち潮はすべての船を持ち上げる”ようなもので、私は自分のレベルを見つけていくだけです。水位線が自然に自らの位置を見つけるように」

──フューチュラさんは、NY出身で現在もブルックリンを拠点に活動されています。新市長に就任したゾーラン・マムダニ氏にどういった印象をお持ちですか? また彼にどんなことを期待しますか?
「彼が当選したこと、そして新しい市長としての始まりにとてもワクワクしています。彼には投票しましたし、彼とそのチームが何を成し遂げるのか見てみたいですね。ハードルはかなり低いので、簡単に乗り越えられるはずです」
──「ポイントマン」のキャラクターを除くと、あなたの作品は抽象的なモチーフが多いと思います。実際に創作するうえで社会情勢や政治問題などが影響を及ぼすことはありますか?
「作品の前面に出る要素としては、社会的・政治的な問題は意識していません。しかし、それらの問題は人間のあり方に影響を与え、それによって生まれる感情や反応、そして内側から湧き上がる作品には影響しています」
Interview & Text : Tetsuya Sato Edit:Naomi Sakai
