器を割り、釘を打ち、糸を張る。また、器の表面に刻まれた文様が、立体的な表情を生み出す。陶芸作家、須藤圭太の作品は、伝統的な陶芸を出発点にしながらも、その概念を根底から問い直すような実験性に満ちている。繊細に張り巡らされた糸、彫刻刀で彫り込まれた線のリズム、それらが作品に艶やかな装飾性と緊張感を与え、独自の存在感を獲得している。このクリエーションは、どこからインスパイアされたのだろうか。彼の代表作である「Dress」と「MYO」の2つのシリーズを軸に、彼の創作の源を探った。

艶やかな服をまとった「Dress」シリーズ
──器がオートクチュールドレスを纏ったような、「Dress」シリーズはどのように誕生したのですか。
「6年ほど前、ある展示のテーマが“食器”だったんです。それをきっかけに、器のフォルムを保ちながら糸を張るという試みを始めました。それ以前は、人体のような抽象的な造形に糸を纏わせていたのですが、器という完成された形に装飾を施すには、必然性が必要だと感じました。そこで思いついたのが、器を“割る”という行為です。器をあえて崩すことで、釘を打ち、糸を纏わせることが意味を持ってくるのではないかと考えました」
──釘や糸のパターンは、どのように決まるのでしょうか。
「まず器を作り、それを割る。ランダムに生じた割れ目やひびから、大まかなデザインが決まります。割れ方とフォルムの関係を見ながら、ここに釘を打ち、この方向に糸を通す、と墨で下書きしていく。その時点で、すでに糸のパターンはある程度、見えています。その後は淡々と糸を張っていく作業に没頭します。繰り返しのリズムは編み物に近い感覚で、一定の手の動きの中に心地よさがあり、何度も糸を巡らせることで濃淡が生まれ、新しい形が立ち上がり、それがまた次のパターンに繋がっていきます」
──糸の選び方にはどのような基準がありますか。また陶器をモノトーンに統一している理由は?
「糸は太さや質感が大きなポイントです。光沢や強度といった実用性も考慮しますが、一番は、糸を張ったときの配列の心地よさ。土台となる陶器も意図的です。表面の糸をより鮮やかに見せるために、黒または白で着色しています。器そのものに赤やピンクなどの色彩があると、そこに意味が生まれてしまう。ミニマルなモノトーンに絞り込むことで、作品のフォルムと糸のパターンを純粋に見てもらいたいと考えています」

──ひとつの作品にどれくらいの時間と糸を費やしますか?
「作品の大きさにもよりますが、だいたい4〜5時間ほど。日をまたいでしまうと気分が変わり、余計な要素を足したくなってしまうので、できる限り一気に仕上げます。糸はおおよそ30メートルほど。なるべく一本の糸で通したいのですが、全体のバランスを整えるために複数本を使うこともあります」
彫るという行為が、器に新しい表情を与える「MYO」

──「MYOシリーズ」の名前の由来を教えてください。
「これは8、9年ほど前から始めたシリーズで、最初は“彫りの模様シリーズ”と呼んでいましたが、展示に出す段階で『MYO』と名付けました。MYOは、“模様”であり、同時に『妙』とも読むことができます。この言葉は仏教において『極めて美しい』という意味があります。ただ、これは、シリーズを象徴する記号のようなものなので、読み方も観る人に自由に委ねています」
──一輪挿しに文様を彫るという発想はどこから?
「版画からイメージを膨らませたところもあります。彫刻刀の入れ方や深さによって、濃淡を表現できるし、彫ることによって模様をつけることは、ある種タトゥーにも通じます。『MYO』は粒子の細かい磁土を使用し、粘土を半乾きの状態で表面を削ります。刃が粘土を削る感覚自体も心地よく、それが制作の動機になっている部分もあるかもしれません。『Dress』は感覚に従って糸を巡らせる即興性という側面がありますが、この作品は、この部分にこの模様を入れようと設計を起こしてから作業を始めます。設計やデザインの工程が大きな比重を占めています」
──パターンの設計はどのように進めるのですか。
「ノートに図案をスケッチしています。ただ、ペンで描く線は均一な太さなので、実際に土に彫りながら、再度、スケッチに戻る、その往復で模様を展開していきます。また、平面で考えた図案を器の360度のフォルムにきちんと収まるかどうか、それも計算しながら進めます」
実用的な食器よりも、表現の手段としての陶芸に惹かれた

──そもそも、陶芸を志したきっかけは?
「幼少期から絵を描くことが得意で、母も美術が好きだったので、よく美術館やスケッチ旅行に連れて行ってくれました。そのまま美術科のある高校に進学し、その後、芸術大学を目指していたのですが、一時期は進路に迷い、興味のあったファッション業界で販売員として働いていたこともありました。それでも、2年半ほど経った頃、やはり美術をきちんと学びたいという思いが強くなり、美術大学の工芸科に進学しました」
──なぜ、工芸を選んだのですか。
「当時、まるで本物のような金属の彫像など、超絶技巧に興味があったことが理由です。工芸科でさまざまな素材に触れる中で、ずっと身近にあった陶芸に目が向きました。地元・笠間には、数多くの陶芸家がいて、実際に作陶で生計を立てている様子を目にしていたので、陶芸なら、創作を“職業”として続けられるかもしれない。そういう現実的な選択でした」

──環境という要素も大きかったのですね。
「そうですね。陶芸を選ぶにあたって、雷に打たれたような決定的な出会いがあったわけではありません。地元にモデルケースが存在していたことが、決断を後押ししたと思います。やってみたいという気持ちと環境、そして運。創作を続けられるかどうかは、結局その3つの要素に尽きるのかもしれません」
──そして、大学院に進学しスイスに留学。なぜスイスに?
「大学院の教授が、フィリップ・バルドという面白いアーティストがスイスにいると紹介してくれたんです。大学や大学院では、陶芸の基礎と立体造形を学び、スイス留学では、美術としての陶磁器文化に触れました。ヨーロッパでは陶芸は立派なアートのひとつで、その環境に身を置く中で、自分もアートとしての陶芸をやっていきたいと強く思うようになったんです」

──以前は実用的な食器の制作もされていましたが、そこから離れた理由は?
「独立した当初は、陶器市で販売するような食器を作っていましたが、日本には優れた食器作家が数えきれないほどいます。正直、自分がそこに加わる必然性はあまり感じなかった。むしろ、用途のある器から離れ、自分にしかできない表現を追求した方がいいと考えるようになりました。それで、徐々に用途のある器から意識が離れていきました」
陶芸の未知なる美を探求する

──釉薬ではなく、糸や彫りを用いた表現に行き着いた理由は?
「陶芸では釉薬を用いた装飾が一般的です。僕も学生時代に一通り学びましたが、そこにあまり魅力を感じませんでした。というのも、釉薬の美は何千年もの歴史の中で確立され、もはや完成された領域です。それを今の時代に落とし込み表現するという方法もありますが、僕が関心をもったのは、今だから成立する新しい表現です。新しい表現技法で、かつ装飾的なものを探りたい。一見奇抜に映るかもしれないけれど、これもひとつの美として成立していませんか、という提案を続けたいと思っています」
──これから挑戦したいことは?
「平面的な作品の商品化です。版画的な平面と立体の中間を、陶芸だからこそ表現できると考えているので、そこをもっと掘り下げていきたい。また、新しい技法をアーカイブ化しウェブで公開することも構想しています。陶芸を志す人なら誰もが手にする、ジョー・コーネルの『陶芸―装飾のテクニック』という技巧書があるのですが、その現代版を作りたい。これまで自分が編み出した技法も、必ずしも全てを作品化できるとは限りません。自分には用途のない技法であっても、他の人がそれを作品に応用して新しい作品を生み出すかもしれない。そしてその作品を観た人が刺激を受けて、さらに新しい陶芸を。そういうサイクルを作りたいんです」

──技巧のアーカイブ化は、ライフワークですか?
「そうですね。2年前から少しずつ進めているのですが、このプロジェクトが収益化できるとは考えていないので、仕事の合間にライフワークとして少しずつ実現していけたらと考えています。そもそも、筆と絵の具があれば制作を始められる絵とは違って、陶芸は技術的な要素が大きく、設備も必要なので、作品が完成するまでのレイヤーが多い分野でもあるんですね。大学などで基礎を学び、そこから自分なりの技法を編み出していく。その技法を編み出す段階をサポートできるようなアーカイブを残したいのです」

──最後に、須藤さんにとって、創作のモチベーションとは?
「陶芸にはまだ未知な部分が多く残されています。焼成による偶然性やコントロールできない面白さもそうですし、まだ発掘されていない“正解”がある。それに対する、冒険心が大きなモチベーションです。世の中にはまだ、陶芸に使用されていない素材が山のようにあります。それを組み合わせて、新しい美しさが生まれるのかを探りたい。そして、今はSNSなどを通じて、その冒険の結果をすぐ社会に投げかけられる仕組みがあります。反応を受け取り、また次の冒険へと進む。結局のところ、陶芸にはまだわからない部分がたくさんある。それが、純粋に面白いと感じるんです」
Interview&Text:Miho Matsuda Photo:Wataru Hoshi Edit:Masumi Sasaki






