直感力の高め方 vol.1「リズムで捉える」by 哲学者・ 千葉雅也 | Numero TOKYO
Culture / Feature

直感力の高め方 vol.1「リズムで捉える」by 哲学者・ 千葉雅也

自分らしい直感力を取り戻すこと、磨くことはできるのか。哲学者や言語学者、クリエイターたちへのインタビューを通して、その方法を探っていく。第1回目は、センスって良くなるの?そんな誰もが気になる疑問に答えた話題の書籍『センスの哲学』の著者、千葉雅也に話を聞いた。(『Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)』2024年11月号掲載

深く考えず直観的にわかる“センス”の正体を問う試み

──4月に、ものの見方の感覚として語られる“センス”について論じた『センスの哲学』を上梓されました。同書では「直感」ではなく「直観」という表記を使っていますね。

「『直観』は哲学用語として用いられますが、感じるだけでなく、時間をかけずに一瞬で成立する理解を表します。英語でいう『intuition』のことですね。一方で『直感』には厳密な定義が見当たりません。今回の特集テーマは『直感』ということですが、一般にはほぼ同様の意味で使われていますので、このインタビューでも『直観』についてお話しさせてください」

──クロエのクリエイティブディレクター、シェミナ・カマリも今季のコレクションに寄せて「intuition」という言葉を使っています。一般には曖昧なまま、両者の表記が混在しているということですね。そしてご著書では「センスとは直観的にわかる」ことだと定義しています。

「何かを見たり聞いたり感じたりした瞬間に、全体像がパッとわかる。順を追って深く考えようと努めなくても、一瞬にして判断できてしまう。いわば感覚と思考のハイブリッドともいうべき理解のあり方——それこそが、普段僕たちが『センス』と呼んでいるものの見方ではないかということです。しかもそれは決して難しいことではなく、誰もが常日頃、普通に行っていることのはず。

にもかかわらず『センスがいい/悪い』と言われると、努力ではどうにもならない能力を評価されているようでドキッとしますし、自分にはセンスがないと思い込んでいる人も少なくありません。そこで、センスと呼ばれる『ものを見るときの感覚』について説明し、それを自覚すれば誰でもセンスが良くなるという提案を試みました」

──同書は生活における芸術感覚を論じた本であり、『勉強の哲学』『現代思想入門』に続く哲学3部作の最終作です。あえて今、このテーマを選んだ理由とは?

「まず背景として、僕自身が美術や音楽、映画など、広く芸術の話が飛び交う家庭環境で育ったこと。高校生の頃は美術の道に進もうとも考えましたが、むしろ言葉で考察する方向に心惹かれていきました。いわばファッションからアート、インテリアから食に至るさまざまな表現に触れていたいという感覚が、僕という人間をつくり上げてきたともいえる。

ところが、それだけ幅広いものの見方を論じるには、生半可な経験では太刀打ちができません。40歳を過ぎてようやく、平易な言葉で論じることができるようになりました。一言でまとめるなら、形や音といった感覚の総体を意味ではなく、“直観的なリズム”として捉えること。その考え方を一冊にまとめたのがこの本というわけです」

──直観やセンスという言葉は往々にして、言語化できない特殊な能力のように扱われています。そうした状況に一石を投じたい、という思いもあったのでは?

「僕自身にはそうしたこだわりはなく、センスという言葉に引っかかりを感じる人が多いなかで、直観によるものの見方について書いてみよう、そしてそれに当てはまるのが一般的にセンスと呼ばれている感覚ではないか……という流れですね。特に最近は、自分が見聞きしたものの意味を求めたり、言葉による説明がなければわからないと突き放したりする風潮が強い。それに対して、言葉にする以前のリズムによる捉え方がむしろ大切ではないかと、ある種の捉え直しを促しているわけです。

例えば、食べ物の味覚も一種のリズムです。餃子を例に挙げるなら、口に入れたときの熱や、皮のパリッとした感じ。嚙むと皮が割れて、中の柔らかい肉やニンニクなど、複数の味が入ってくる。そうした要素が複雑に絡み合い、音楽のようなリズムを奏でていく。要はそれをいかに自覚的に感じられるかだと思います」

言葉による意味から離れて、物事全体をリズムで捉える

──よく聞く俗説に、人間の右脳は感覚を、左脳は論理的な思考を司っており、もっと直観的に右脳を働かせるべきだという話がありますね。

「まず、その話は科学的な裏付けが極めて疑わしい。それに『論理』という言葉の扱い方に問題があります。一般的に『論理的な思考』というと、日本語や英語といった自然言語(人間が意思疎通に用いる日常的な言語)で文脈を展開していくイメージだと思うんです。でも、人間は意識せぬままに身の回りの空間や環境を認識し、自分の行動を制御しています。いわば脳内で絶えず非常に複雑な計算をしているわけです。

それを言葉で説明できないのは、自然言語とは別の作用が働いているからであって、決して『非論理的』だからではない。直観をはじめとする感覚的な体験をうまく言葉にできないのも、それと同じことだと思います」

──なるほど。一方で現代社会は合理的な意味を求めるあまり、人間性が抑圧されているといわれます。誰もが自由に自分らしさを発揮する上で、直観を重視することは一つの解決策になり得るでしょうか。

「わかりにくい事柄について深く考えたり議論したりすることなく、すぐに目的や意味をはっきりさせたいと考える傾向が強まっているのは確かだと思います。問題の一つは、やたらと話を単純化したがること。しかし、芸術作品やエンターテインメントのコンテンツ、食べ物の味やパーティの人間模様など、人間が住む世界のどこを取っても単純な話に収まることはそうそうない。どんな物事も決して一言では説明ができないほど複雑な要素で成り立っていて『ここが役に立った』『こういう学びがあった』と言うことはできるけれども、それはあくまで一部だけを切り取っているにすぎません。

だからこそ、出来事全体を意味ではなくリズムとして捉えてみる。元の複雑さを単純な良しあしで判断せずに、複雑なまま受容するよう心がける。それは世界と自分のあり方を思い込みによって狭めずに、そのまま肯定する方法ともいえるでしょう」

──そうしたものの見方に長けているからこそ、アーティストは自由な存在だといわれます。しかし、表現の道で生きていくには作らずにいられない切実さや執着など、自由とは相反する要素が欠かせない。この矛盾をどう説明しますか。

「確かに『センスの哲学』でも『芸術とはそれを作る人の『どうしようもなさ』を表すもの』だと書きました。ただ、今の話でいう『自由』とは、一般社会の常識にとらわれず気ままに振る舞うといった、アーティストの行動にまつわるイメージの話ではないでしょうか。ともあれ、創造的なことに関わる人は往々にして、社会通念に対する息苦しさや生きづらさを感じている場合が多いものです。そのなかでどうしても表れてしまう癖のようなものがあれば、それこそが表現における個性やオリジナリティになっていくのだと思います」

他人のセンスに惑わされず、自分の直観を楽しむために

──今やSNSをはじめ、そこかしこに“センス自慢”があふれています。それらに惑わされることなく、自分だけの直観で物事を楽しむにはどうすればよいでしょう。

「そうした画像や映像は参考にはなるとして、重要なのは自分がどうするかです。その上でいえるのは、誰もが自分の文脈というものを持っているはずだということ。例えば子どもの頃から好きだったものや、複雑な感情を抱いている対象など、単に好きというよりも、何か気になって仕方がない癖が表れたり“苦み”を感じたりするもののほうが、大きなポイントにつながる気がします。

であれば、まずはその文脈を掘り起こしてみる。ファッションであれば、昔好きだったアイテムをリバイバルさせてみてもいいでしょう。流行に合わせるだけでなく、それが今の時代状況においてどう見えるか、自分の文脈をどう再構築できるかを試してみる。これ自体が一つのクリエイティブな遊びであり、自分自身を治療するようなプロセスにもなり得ると思います。『センスの哲学』にも付録として、自分のセンスを活性化し、芸術と生活をつなげていくための三つのワークを掲載していますので、ぜひ試してみてください」

──小誌はモード誌として、いわばお手本になるべきセンスを取り扱ってきたわけですが、それを自分の文脈といかにリズムよく交差させるかが大切だと感じました。

「とてもわかりやすい喩えだと思います。誰かが作った表現を直観で捉え、それを自分のリズムと交差させることで、新しいハイブリッドを生み出していく。ファッションとはまさにそういう遊びではないでしょうか」

──実は小誌の創刊テーマは「毒抜きされたモード誌はもういらない」。先ほどおっしゃった“自分だけの苦み”と共通するものがありますね。

「そう思いますよ。文化は決してポジティブなものだけで構成されているわけではない。それどころか、その根本には否定性がある。何かを面白いと思うのは刺激を感じることですが、突き詰めるなら生命にとって刺激とは安定した環境を揺るがすもの、不快に他ならないという考え方がある。クィア理論の研究者であるレオ・ベルサーニは、そうした不快な刺激に耐えて人間が生きていくことそれ自体がマゾヒズム的であり、文化にはその否定性を肯定的に転化する働きが含まれると述べています。

ファッションであれば、人を驚かせるようなデザインや、不良文化につながる側面などがそうですね。もし快適さや機能性だけが必要であれば、誰もが昔の未来予想図に描かれた全身タイツのような格好をしていればいい。そうではなく、いかに無駄や過剰さ、いわば毒を楽しむか。これもまた、直観やセンスの効能の一つといえるかもしれません」

『センスの哲学』

著者/千葉雅也
価格/¥1,760
発行/文藝春秋

服選びや食事の店選び、インテリアのレイアウトや仕事の筋まで、さまざまなジャンルについて言われる「センスがいい」「悪い」という言葉。このいわく言い難い、因数分解の難しい「センス」とは何か?果たしてセンスの良さは変えられるのか?音楽、絵画、小説、映画……芸術的諸ジャンルを横断しながら考える「センスの哲学」にして、芸術入門の書。

Artwork:Yuji Oda Interview & Text : Keita Fukasawa Edit:Mariko Kimbara, Miyu Kadota

Profile

千葉 雅也Masaya Chiba 1978年、栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。著書に『動きすぎてはいけない——ジル・ドゥルーズと生変化の哲学』(河出書房新社)、『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋)、『現代思想入門』(講談社現代新書)ほか。最新刊に絵画から音楽、映画などさまざまな芸術のジャンルを横断した“全芸術論”にして芸術の入門書『センスの哲学』(文藝春秋)がある。

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