鳥飼茜×朝吹真理子×金原ひとみ 鼎談「正しい身体の描き方をめぐって」 | Numero TOKYO
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鳥飼茜×朝吹真理子×金原ひとみ 鼎談「正しい身体の描き方をめぐって」

17人の書き手が記したリレーエッセイ集『私の身体を生きる』にて、自らの「身体と性」に向き合った鳥飼茜、朝吹真理子、金原ひとみ。3人の作家が考える各々の「身体と性」への向き合い方、今の時代の“正しい身体の描き方”とは。(『Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)』2024年10月号掲載)

【参加者プロフィール】
(左から)
鳥飼茜
1981年、大阪府生まれ。漫画家。近作に『サターンリターン』(小学館)、エッセイ『漫画みたいな恋ください』(筑摩書房)など。現在『バッドベイビーは泣かない』を『モーニング』で連載中。『先生の白い噓』(講談社)が映画化され、全国で公開中。

朝吹真理子
1984年、東京都生まれ。作家。2009年『流跡』でデビュー。翌年、同作でドゥマゴ文学賞を受賞。11年、『きことわ』で芥川賞を受賞した。近作に『TIMELESS』(新潮文庫)、『だいちょうことばめぐり』(河出書房新社)など。

金原ひとみ
1983年、東京都生まれ。作家。2003年、デビュー作『蛇にピアス』で第27回すばる文学賞を、翌年に同作で第130回芥川賞を受賞。近作に『ハジケテマザレ』(集英社)、『アンソーシャルディスタンス』(新潮文庫)ほか多数。

「身体と性」に向き合った記録

──17名の作家が「身体と性」に向き合ったリレーエッセイ集『私の身体を生きる』ですが、金原さん、朝吹さん、鳥飼さんはお互いの作品にどのような印象を抱かれましたか。

金原ひとみ(以下K)「二人に限らないんですけど、『身体を生きる』というテーマから想起されることがここまで違うのか、身体も性も本当に個人的なものでしかないのだなというのを実感して。人の可能性の大きさにも気づけたし、一つの財産のような本になったなと感じました」

鳥飼茜(以下T)「本当におっしゃるとおりで、皆さんそれぞれてらいなく表現できる能力がある人たちだと思うんですけど、このテーマを与えられたことで、よりそれが加速したっていうか」

朝吹真理子(以下A)「私は『文學界』で連載が始まってから、毎号楽しみにしていて。だから雑誌に掲載された時点で皆さんのエッセイを読んでいます。でもこの間、金原さんとも話していたけど、性や身体のことだからなのかもしれないのですが、その瞬間の体感を書いているので……お二人が書いたのはいつごろですか?」

「私は2023年と最近」

「私は、結構前ですね、21年」

「たぶん、もう3年前の自分と今の自分って……」

「そう、全然違うんです!」

「この連載をいま書くとしたら、ちょっとずつ内容が違うよねっていう話を先日していたんです。瞬間の思いだからこそ生々しくて。性の話を書きたくないし考えたくもない、という方もいて、全部がとても面白かった」

「貴重な記録ですよね」

──どのエッセイも皆さんが真摯にテーマと向き合って書いたのだと感じましたが、書き上げるのに普段より時間がかかったのでは?

「私はエッセイと小説はあまり区別して書いていないので、構えずわりとスムーズに書いたんですけど、書籍にする段階になって真逆に変えたところがあって。連載時に『時代的に間違っているから、この男を嫌いになったわけじゃない』という内容で書いていたところを、書籍版では『時代的に間違っているから、この男を嫌いになったのだ』としたんです。

当時はまだ自分の中で揺れていた時期だったんですけど、3年の時をへて『あれは間違っていたから失敗したとしか言いようがない』と確信に変わっていたんです。短いスパンで自分も社会も変わったし、性を取り巻く環境自体も少しずつ変化しているのを感じる、一つの大きな前提が変わったのを実感しました」

「私は依頼があった頃に自分が性欲とみなしてきたものが何であるかについて描きたいという思いが湧き出ていて。でも、私は漫画家なので、漫画にするとなるとストーリー仕立てにするなり、キャラクターを作るなり、すごくお膳立てしなきゃいけないから時間がかかるし、それこそ描き時を逃しかねない。そういうことを思っていたときに依頼が来たので、そんなに葛藤はせず出てくるままに書いたと思います」

「私は内容自体は変えてないです。むしろ連載時と身体の実感が違ったから『このとき、こういうことを考えていたなあ』と思い出しながら赤字を入れていました」

「ちょっと別人感覚?」

「ある。その時々で人間の体感は変わるんだなと思って。書かれたときの暫定的な記録なんじゃないかな、と思います。人は固定しているものじゃないから、考えることが変わる。いろいろあって、いま欲望が消失しているので、読み直しながら、ちょっと前の自分に、困惑しました。好きなBLも最近読む冊数がぐんと減ってしまって」

「でも俯瞰的に見ると、そういう趣味がなくなった状態のほうががぜん短いわけじゃないですか」

「確かにそうなのだけれど、身体の変化をすぐに忘れてしまうのかも」

「どっちのほうが幸せですか。身体と自分との関係でいうと、どっちのほうが楽っていうか…… 鳥飼さんは性欲がなくなったと書いてたけどどう?」

「いま楽ですよ。やっぱり、セックスというものにすごくとらわれていたと思うから。私は『私の身体を生きる』って、『女の私の身体』だと捉えたんですけど、女の身体って社会の中で性的なものというイメージを絶対に少なからず持たざるを得ないと思うんですよ。そういうことがあるから『性的なものとして人から思われる身体』というものと『自分の身体』っていうものの距離を書くしかないと思って。

私は異性愛者なので、男性からセックスを求められる対象でいる必要があるみたいな感じがずっと長く続いていて。でも、これがパタッとなくなったんですよ。『どうしたことなんだろう?』ということをひも解いたときに、もともと性欲というものが自分の中にあったのかどうかという疑問が出てきてしまって。

自慰は純粋に性欲でやっていると思うのだけど、男性とのセックスでいうと果たしてそのうちの何割が性欲由来だったのかとか、いろいろな考えをこそげ落としていくと『もともと性欲があまりないんじゃないか』とか、なんかわからなくなってしまって。性欲があったのかなかったのかもわからないし、今後変わるかもしれないし…いまは自分がどうなるかをちょっと試しているみたいな感じではあるんですけど、ただ楽かといわれれば、すごく楽。焦りがないというか」

「切なさみたいなものが?」

「そうそう。『求められていなくてはいけない』っていう気持ち自体もシュッとなくなったから」

「そういう身体と自分自身の乖離について書いている人が多かったなと思いますね。これは恐らく女性だけじゃなくて男性もそうなんじゃないかと思うけど」

「そうかもしれない」

「性欲とか身体って外部から『こういうものです』と押し付けられているだけであって、きっとその狭間で『本当にこの認識でいいのだろうか』とか『このセックスでいいんだろうか』みたいなことを思いながらも『でもまあ、こういうものだよね』と無理やり枠に当てはめて考えているところがあるんですよね。

それで、その社会的な性、身体と、自分とのズレが強く表れているところを書いている方が多かったのは、身体とか性というものが現代においてそもそもどう捉えるべきものなのかというモデルケースがかなり限られていて、しかもエロコンテンツ由来のものがほとんどであるみたいなところが、問題の発端になっているんじゃないかと感じました」

──『私の身体を生きる』は自らの「身体と性」に向き合う連載としてスタートしたものでしたが、女性が以前よりもオープンに身体や性を語れる時代になったと思いますか。

「この間フランスに行ったとき、20代の女性と話す機会があって。『恋愛してる?』という話になり、会って2分でセックスの話になったんですよ。そのときにポリアモリー(複数愛)の子が増えていると言われたので『あなたもポリアなの?』と聞いたら、彼女は『自分と彼が二人でつくってきたセックスを他の人に適用されるのが嫌だから私はない』と言っていて。

相手が変われば新しいセックスをつくり上げる感覚でいるらしいので『日本人の男性はああして、こうしてって言ったら萎えちゃうんじゃないかな』って言ったら『もったいない!それこそが恋愛の一番のエンターテインメントなのに!』と言われて、この無邪気にセックスを楽しむ感覚は日本にはあまりないなと思いました。そういう感じで恋愛相手とも友達ともフランクに性の話ができたり、研究、開発ができるようになったらいいのにとは思います。ただ、こういう話はナイーブなものなので、コンセンサスを取れている相手でないと……」

「『猥談いけるんだ?』みたいな感じになってしまう。でも単に身体のことじゃなくても『女性から見た世界はこういうふうになっている』という話をしただけで、男性ってものすごく身構えませんか。ある人は怒り出し、ある人はごまかし始め、みたいな感じで。たぶん日本の人って立場が違うっていうことがそもそも念頭にないから『私のこと責めてるの?』みたいにすぐなってしまうというか、自分もやっぱりなるときはあって。だから、そういう話をまずできるようになってから、セックスの話なのかなって思う」

「普通に人間関係が対等に結べてからセックスの話をしよう、と」

「そうそう。でもそれって議論の練習がなってないのか、何なのかなって。本とかけっこう読むと、人の立場に立つことを楽しめるくらいにはなると思うんですけどね」

「でもその心構えは、これから絶対に必要なものですよね」

「セックスをつくるとか、それでしかなくない?『おまえがダメだ』みたいな話になっちゃっているからダメなのであって、ちゃんとトークテーマと自分とを、ある程度の距離を持ってしゃべれるかどうかが大切だと思うし、女性もそういうことを求められると思う」

時代的に正しくあるために

──金原さんのエッセイでは、正しい性欲のあり方は時代によって変わっていくということでしたが、お二人はどう思われますか。

「私、金原さんのエッセイを読んですごく胸のすく思いがしたんですよ。『時代的に間違っているから、あの恋愛は破綻したに違いない』『私は時代的に正しい人を好きになり、時代的に間違っている人を嫌いになったのだ』って、すごくそのとおりだと思って。

私はずっと同世代の人とばかり付き合ってきていて、同じものを見てきているから話が通じるものだと信じてきたんだけど、断絶があって『何なんだろう?』と思っていたんです。で、それを金原さんの言葉に当てはめたとき、めちゃくちゃすんなり納得して。『同じものを目の前に、違うものを見てたんだな。同じものを見れない時代だったんだな』と。

自分が求めていたものは、その時代的に正しいかどうかっていうことに言い換えられる、しかも何ならその男性としてきたことを『時代的に正しくないから破綻した』と断言できるって、これ以上ないキラーワードというか『なんかめちゃくちゃ強い武器を持ったな、あの人!』って思いました。私もこれから個人的に使っていこうと思って」

「『おまえは時代的に正しくないぞ!』って?」

「そう。『あいつ、時代的に間違っていた』みたいに思って、溜飲を下げている感じ」

「そういう時代的な間違いに、今になって苦しんでいる人はきっと多いんじゃないかと思うんですよ。あとから思い返して『あれは絶対に間違っていた』と、そのときには気づけなかったことに気づいて一人で苦しんでいる人もいるだろうし。それをフラットに言語化したいと思ったんですよね」

「すごいのは、『時代的に正しくない』って、男だけでなく女にもあると思うけど、個人を攻撃してないじゃないですか。手のひらを返せば『ここから学んでいけるよ』ということでもあって。なんか、相手に学びの機会すら与えるというか。ある人が『時代的に間違っている、自分!』と思ったとき『じゃあ、どうしていったらいいか』という方向に持っていけるかどうかはその人の心の持ちようで、ものすごい余地がある言葉でもあるから、すごく上手に言うなと感心しました」

「でも、その部分が書籍で全部変わっているのが面白いよね」

「『どっちなのかな?』と迷いながら書いた3年後に『時代的に間違っていたんだ、あの人は』と結論が出せたことにホッとしたし、実りのある3年だったんだなと思いました。雑誌掲載のときも、最後までこれでいいのかと悩んでいたことを赤字を入れながら思い出したし、あのときは『時代的に間違っているから、この男を嫌いになったわけじゃない』と思い込もうとしていたんだな、ということにも気づかされました」

「私は性のことだけではなくて、身体のことになると、一つの答えにまとまっていかなくて、いくつもの『私』が存在して統合できない感じがしています。エッセイでも書きましたが、子どものころからBLが好きで、漫画の中で、自分の中の恋愛に似た気持ちや暴力性を解放していましたし、読んでいると『私』の身体が消える感覚になるところも好きでした。

そもそも、欲望に普通はなくて、すべていびつだと思っています。もちろんそのときの社会の倫理観に大いに関係すると思いますが、絶対的な善いもの悪いものには分けられないとも思います……」

──作品を受け取る側としてはさまざまなものを楽しみたいときもあります。表現をする側としては暴力性とのバランスをどのように考えていますか。

「私はもともとセックスや性暴力を結構踏み込んで描いてきたというのがあるから『今後もそういうことを描いていきます』と言えたらいいんですけど……興味の対象とかも変わっている中で一つ感じたのが、ニナ・メンケスさんという映画監督の『ブレインウォッシュ セックス‒カメラ‒パワー』というドキュメンタリーを見たときに思ったことで。

ハリウッド大作みたいな作品を含む100本以上の映画のあらゆるシーンを引用して、いかに映画というものが男性のまなざしをベースに作られてきたか、それがどういう影響を女性や社会に及ぼしてきたかを語る作品なのですが、見たときに『そういうものを私も使ってきた』という罪悪感を覚えて。わかりやすい例でいうと、あるセクハラを訴える映画があり、その中でのセクハラのシーンが加害者の視点で作られていて、誰を楽しませるものなのかという趣旨がずれているんですよ。

それを見たとき、私はこれを絶対にやっていると思って。レイプを訴えている漫画の中ですら胸元のアップだったり、無理強いされているけどエッチっぽい表情だったりとか、そういうものを無数に浴びてきたから、ものすごく意識しないと自分の創作でも排除できないんですよ。意識的にポルノを描くのは別にやればいいんだけど、私がやりたいのはそれじゃないのに再生産している。これが本当に怖いことで」

「難しいよね、自分で書くときは検閲する目になっていないから。あとで読み返したり、推敲したりする途中で気づいたりする」

「だから時代的に正しくないんですよ、自分が。で、後になって『これは正しくない!』と愕然とする」

「私はそこまで直接的なものを書いてこなかったけど『もうちょっと配慮できたんじゃないか?』『違う場所からの視点にしたほうが傷つく人が少なかったんじゃないか?』とか思い当たるふしがあります。小さなことでもその視点があるかないかで印象は変わってくるので、これからは本当にいろんな視点から角度をつけて見るような感覚で書いていかないと、と思っています」

『私の身体を生きる』

著者/西 加奈子、村田 沙耶香、金原 ひとみ、島本 理生、藤野 可織、鈴木 涼美、千早 茜、朝吹 真理子、エリイ、能町 みね子、李 琴峰、山下 紘加、鳥飼 茜、柴崎 友香、宇佐見 りん、藤原 麻里菜、児玉 雨子
価格/¥1,650
発行/文藝春秋

17名の書き手が自らの「身体と性」に向き合ったリレーエッセイ集。「女性が性や身体の話について率直に語る場があってもよいのでは」という島本理生、村田沙耶香との会話により、文芸誌『文學界』で2021年から連載がスタート。文学の最前線を担う書き手が後に続いた。多様な考察が新しい気づきと深い共感をもたらす。

Photos:Shunsaku Hirai Hair:Yukako Morino Makeup:Miwako Mizuno Interview & Text:Miki Hayashi Edit:Mariko Kimbara

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