古今東西を折衷するSETCHUの美学。デザイナー桑田悟史にインタビュー
LVMHプライズ2023で、満場一致のグランプリを受賞。ハイファッション界隈の目利きたちが今、熱い視線を注ぐ「セッチュウ」はサヴィル・ロウでキャリアをスタートし、20年かけてさまざまなメゾンで経験を積んだ桑田悟史が、パンデミックの最中にミラノで立ち上げたラグジュアリーブランドだ。そのユニークなバックグラウンドとブランドのヴィジョンを聞いた。(『Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)』2024年5月号掲載)
XXXXLを着る感覚で、女性がサイズ3を選んでも 生地がより生地らしく、彫刻的に見えるように作っています
「ないものは作れ」の教育で服づくりに目覚めた子供時代
──デザイナーになろうと決意したのはいつですか。
「10歳になる頃には自分のブランドをやりたいという夢を持っていました。家庭科の授業とか大好きで、ナップサックを作ろうとなったとき、僕は1個では作り足らずに10個くらい作って、さらに刺繍で名前を入れてみんなに配ったり。母親がすごく上手だったんです。お琴をやったり着物を作ったりといわゆる古典的な日本人女性で、僕も上手くなりたくて、どんどん教えてもらっていました」
──最初に作ったのはどんな服?
「5〜6歳の頃、家にあったジャケット2着を解体してみたのがすべての始まりかもしれません。シームというシームをとりあえずバラバラにしたら、なんだかわからないものがいろいろ入っていて衝撃を受けた。これをイチから組み立てていくのは面白そうだなっていう単純な考えです。うちにはレゴ以外、オモチャが全然なかったので、みんながガンダムを組み立てて遊んでいたときに、僕はそれをジャケットで楽しんでいた感じ。『ないものは作れ』というのが母親の教えで、買うという考えが一切ない。金銭的にタイトな教育でした。思い返せばすごくラッキーな環境だったと思います」
──そんな子供期の初心を貫いて、サヴィル・ロウへ。
「ヒースロー空港に着いて次の日には『GIVE ME JOB(=仕事をください)』のプラカードを持ってサヴィル・ロウに立っていました。英語は話せなかったし、ヤバい日本人がいるぞと噂されていたようですが(笑)、訴えられるわけではないのでそのまま3カ月くらい続けて。そしたらある日『君、面白いね。とりあえずおいで』と誘ってくれる人が現れた。アレン兄弟というイズリントンにある黒人テーラーでした。彼らはコム・デ・ギャルソンのモデルをしたこともあって、ファッションとの関わりもあったので、興味を持ってくれたのかなと思います。実際にサヴィル・ロウで働くようになったのは、そのアレン兄弟のところでインターンをした後。僕はずっと知らなかったのですが、そのテーラーに時々出入りしていた彼の弟さんが、ジョニー・アレンという老舗『ハンツマン』のお偉いさんだったんです。ある日いきなり彼から呼び出しがかかって、働かせてもらえることになりました」
サヴィル・ロウからファッションの世界へ
──同時にセント・マーチンズにも入学。
「イギリスはビザが厳しくて、滞在を続けるためには学生ビザを取るしか方法がなかったから。だったら一番の学校に行きたいと思って応募したら、運良く入学することができました。今も親しくしてもらっているハワード・タンギーという先生がとても理解のある方で、『サヴィル・ロウに就職できた卒業生なんてほぼいないんだから、すでに働いているんだったら学校は来なくていい』と言ってくれた。セント・マーチンズの4年次は、卒業生デザイナーのアトリエで働けるカリキュラムになっていて、そのタイミングでハンツマンを辞めて、ガレス・ピューのところに行きました。まだファッションの経験が少なかったので、やってみたいと思ったんです」
──卒業後、多くのブランドからオファーがあったと聞きました。ご自身でどんなところが刺さったのだと思いますか。
「なんだろう。わからないですが、僕はコーヒーを一杯入れるだけでも全力でやるのが好きなので、いい意味で競争精神があるかもしれません。生地を作るときも同じで、縦糸と横糸さえわかっていたら、生地って簡単に作れるんです。それを知ろうとして実際に生地から作るのか、知ろうとしないで生地は作らないか、っていう差がそこにはあるだけ」
──桑田さんの場合は、全てを知りたい。
「はい。ただ、つねにレーダーは張っていましたし、気になるブランドには自分から作品のPDFを送っていました。あと、当時はまだSNSがない時代だったので、いい評判が出るとそこに集中しやすかったというのはすごくラッキーでした。ジバンシィは反応が早かったです。メールを送った次の日には来てくれと返事が来て、1週間後にはパリに引っ越していました」
──ジバンシィ、イードゥン、そしてYe(カニエ・ウェスト)。サヴィル・ロウから始まったキャリアとしては、振り幅がとても大きいです。
「サヴィル・ロウは誂えの文化であり、究極の形はそこにあると思うので、一生かけてもよかったかもしれない。ただ、サヴィル・ロウには女性服がない。女性のオートクチュールをやってみたい思いがあったのと、母親がオードリー・ヘプバーン好きだったので、そうするとジバンシィですよね。その後にNYのイードゥンに入った理由は、まだ誰もやっていなかったことを彼らがやっていたから。つまりアフリカでものづくりをするという、いわゆるサステナビリティです。実際に行って蓋を開けてみると彼らの服は中国製だったので、全部アフリカ製に変えたいと社長に直談判して、しばらくアフリカに通ったりしました」
──自分のブランドを立ち上げる夢のために、必要なピースを集めていった感じですか。
「サステナブルを武器に商売をするつもりはないですが、サステナブルであり続ける会社をつくるためにはサステナブルなこともわかっていないとダメですよね。イードゥンの後は、コンテンポラリーなブランドの経験が欠けていることに気づいて、ゴールデングースへ。ミラノに住んだことがなかったので、その意味でもちょうどよかった。カニエ・ウェストのところで働いたのも動機は単純で、セレブたちがどんなことを考えて、どういう生活をしているのかを知っておきたいと思ったからです。すごく勉強になりましたし、おかげでヴァージルと出会うこともできました。後に彼からオフ-ホワイトに誘ってもらったときは、すでに興味が次に向かっていたので断りましたけれど」
──ヴィジョンがとてもクリアです。そして2020年、満を持してセッチュウを立ち上げた。
「本当は31歳で始める人生設計を立てていたので、自分としては遅かったです。日本とイタリア半々でやるつもりだったのですが、その準備のために一度日本に帰国し、ミラノに戻る便でコロナになってしまった。プランを練り直し、ミラノで『セッチュウ』を立ち上げて今に至ります。日本でものづくりをするプランに関しては、当初とは違う形ですが進めているところです」
──ロンドンでもパリでもなく、ミラノを選んだ理由は。
「単純に工場との距離が近いから。小さなチームですが、いつも生地から作っています。例えば先日発表した秋冬シーズンでは、シルク100%でジャカードを作りました。生地屋さんからは売れないだろうといぶかしがられていましたが、いざ発表したらたくさんオーダーがついた。すごいねと生地屋さんも見直してくれたり、そういうやり取りの中で一緒に進化していくのは面白いです。縫製に関してはイタリア各地の工場で、やっぱり同様に直接足を運んで、昔ながらのやり方でやり取りさせてもらっています。そのほうが、人も時間もお金もかからない。取引しているのは、トップメゾンも使っている超一流の工場です」
──ジバンシィ時代などに築いたつながりで。
「それもありますが、同時に僕たちは工場の職人に楽しく作ってもらえるようにキャッチボールを大事にしています。今シーズンはこの部分が気になったから、次のシーズンで改善してね、とか、嫌な工程があったら教えてね、というふうな会話をしています。僕たちの服は基本の作り方が変わらないからできることです。つねに手作業にこだわり、表から見えないところでも改良し続けています」
右:ドライタッチで軽やかなダブルブレストジャケット。セッチュウの服は折り紙のように美しく畳みやすいのも特徴。左:最高級のシルクに、葛飾北斎をイメージした色柄をプリント。花の合間に妖怪が潜んでいる。
会社そのものをデザインする
──セッチュウというブランド名はいつ決めたのですか。
「馴染みのある日本語で、発音がしやすくて、高級感のあるもので。ということで、なんとなく前から思い浮かべていたのですが、ブランドを立ち上げるときにやっぱりコレだなと。あと、僕がいなくなったときに、ブランド名が自分の名前だと意味がないなとも思っていて。セッチュウのヴィジョンは、一つのメゾンになることであり、僕は会社をデザインしたい」
──和洋折衷、の折衷ですよね。
「はい。西洋では馴染みのない言葉で、英訳するとしたらcompromiseが近いですが、ややネガティブな響きもあるので『それはやめたほうがいい』とこっちのジャーナリストには言われます。その人には会うたびに『サトシ、答えは見つかった?』と聞かれますし、そこからいつも会話が始まる。そんな答えが出ない感じも含めて気に入っています」
──HPのトップにある水と油が入ったビーカーの写真が象徴的です。
「僕なりの侘び・寂びの解釈です。和洋折衷はまさに水と油の関係だと思います。例えば料理でも、水と油があるから味がまろやかに感じますが、実際のところはどう混ぜても交わることはない。セッチュウのデザインにもそういうところがあって、わざとバランスを崩したところに面白さがある。あれ?なんかエラーっぽいけど、全然きれいだよねっていう」
──あれ?というところでいくと、24年春のルック写真にも違和感を覚えました。粒子が粗すぎるのか、解像度が低いのか。
「気づきましたか? そうです。1950年代のヴィンテージのフィルムを使って映像で撮って、ローマで現像して、ミラノでカラコレなどをしたものから切り取って、またエディットして、というプロセスを経て作っています。撮影をお願いしたのはマッシミリアーノ・ボンバという映画監督。彼が持っているフィルムカメラを目にしたとき、その機能美がすごく気に入って、これで撮ってほしい!とすぐにオファーしました。普段はハイブランドのキャンペーンフィルムなどを多く手掛けている方ですが、ルックブックとして撮ってもらったのは僕が初めてだと思います」
ルックすべて2024年春コレクションより
黒はファッションのすごみ。白は初心を忘れないための色
──興味が赴くままに進む道はリスクも多いのではないかと想像しますが、そんな中でも桑田さんは「絶対に怒らない」とスタッフの人が言っていました。
「何かを決めるときは、絶対に妥協しません。白黒はっきりさせてから進めます。ただ、そのゴールに向かってみんなで何かを作る、その過程には逆に白黒は置いていないかもしれません。そこで起きる化学反応を楽しんでいます」
──桑田さんにとっての白黒はどんな色、存在でしょうか。
「黒はずっと憧れの色でした。ドレスコード上は、タキシードや燕尾服などの礼装を除いて存在しない色だから。サヴィル・ロウでお客さんが黒で作りたいと言ったら断りますしね。でも、ファッションデザイナーなら黒もアリですよね。歳を重ねるほど、川久保怜さんのすごさがわかるようになってきました。一方の白は、僕にとっては初心を忘れないための色。汚れるのに10万円もするシャツを買える人って、限られていると思うんです。つまり売りやすい色ではない。でもだからこそ、謙虚さと感謝の気持ちを込めて、つねに白でいいものを作りたい。なので、僕はコレクションの中に10〜15%の白と黒がいつもあるようにしています。それがあることによって、日本的な美も伝わるようにしたいと考えています」
── LVMH プライズのグランプリを受賞後、変化はありますか。
「僕の中で一番大きいのは、これまでずっと支えてくれてきた仲間とのチームワークがさらに強くなったこと。母親も大喜びしています。いつか新聞に載るなら悪いニュースだろうと心配させ続けた問題児だったので、少しは恩返しができたかなと」
──これからの展望を。
「いつか美術館にも呼んでもらえるような方向を目指しています。そのために今、何をすればいいのかということを、チーム全員で共有しています。ものづくりの世界との懸け橋を生み出すために、伝統のアーティザナルにフィーチャーするようなイベントもいろいろ考えています。10年後にはLVMHの一つのメゾンになるようなパワーをどんどん蓄えながら、ラグジュアリーライフスタイルブランドとして、生活に必要なものはすべてデザインしていきたいです」
SETCHU
セッチュウ
https://www.laesetchu.com/
Photos:Frankie Vaughan Realization, Interview & Text:Miwa Goroku Cooperation:Kiyoe Sakamoto Edit:Chiho Inoue