シャラ ラジマ 「当たり前の肌の色」 | Numero TOKYO
Culture / Feature

シャラ ラジマ 「当たり前の肌の色」

本誌1・2月合併号「カラフルに輝くファンタジーへの誘い」(p.70〜)でモデルも務めてくれたシャラ ラジマ。周りとは違う肌の色を生まれ持った彼女が肌色をめぐる思索を通じて社会を考える。(『ヌメロ・トウキョウ(Numero TOKYO)』2024年1・2月合併号掲載)

Photo:Ayaka Endo
Photo:Ayaka Endo

「当たり前の肌の色」

文・シャラ ラジマ

思い返せば思春期の頃から、私は美容やおしゃれに疎かった。これは私の経験に裏付けされるもので、女の子が色気付いて美容やメイクに関心を持つ中高生の頃に、もちろん私も関心を持った。

しかしメイクをしてみようと、みんなと一緒に駅前の大型薬局に行ってみても、まずファンデの色がなかった。当たり前だ、当時まわりにほとんど外国人がいない環境で育っていた。血筋的には韓国や中国人などのアジア系が混じっている人はいたが、一目で顔と肌の色が違う南アジア系は私だけ。一人だけ明らかに肌のトーンが違う私の色のファンデーションだけポンと置いてあるはずがなかった。

ファンデーションだけではない。書店で見かける雑誌やテレビで見かけるメイクは全てアジア人用の、当時は清楚モテ系のメイクが流行っていた。日本の人から見たら明らかに濃すぎる顔と肌の色である私のモテとは、どこを基準点にすれば良いのだろうか。アイシャドウやリップはどんな色が合うだろうか?ベースの色が違う場合、例外についての記述や参考はほとんどどこにも見当たらなかった。

デジタルネイティブ世代とはいえ、その頃の私はまだインターネットディグの技術は全然間に合ってなかった。そして何よりも、めんどくさがりでズボラな私にとって美容は最優先事項ではないのかもしれないと考え、すぐに諦めた。

有色人種に生まれて、小さく細かい問題はほかにもいくつかある。例えばファストフード店でバイトをしていた頃、制服のスカートの下に「肌色」のタイツを履かなければならなかった。規則通りに履いたタイツは生脚を隠すどころか、明らかに身体の他の部位から浮いていて、むしろ目立ってしまっていた。

「肌色」という言葉は、私自身も今も昔も日本人の基準で使ってしまっているし、今後も読者の認識と同じ「肌色」を指しているが、この言葉は私の肌の色ではないんだなと、こういった経験の積み重ねで知っていくことになる。小学生の頃に購入したクレヨンの「肌色」もオレンジと桃色の間のような淡い色合いだったと思い出す。

個人の趣味で留まる範囲であれば、化粧をしない、タイツを履かないことで私側が工夫すれば、これらの問題は取るに足らないかもしれない。だがモデルの仕事を始めて、自分の身体が社会に露出された時、これらはどうにかできる問題でなく、私自身のデメリットとハンデになった。

モデルという「理想的な姿と身体」を持つとされている職業に、親しみのない肌色の外国人で、しかも褐色の肌に対して髪の毛を金髪にし、目には青いカラコンという姿で挑んでいるのは、美の評価基準の場外にいた私のアナーキズムだ。偶然にもヌメロ・トウキョウは初めて仕事をした雑誌である上、今回も偶然同じ号でモデルの仕事をいただいた縁がある媒体である。ここではプロフェッショナルの手によって読者にはなんの違和感もなくモデルをやってる人と思われるかもしれない。美の価値基準の中での良しあしでなく、少し前まで場外だった者がこの壇上で、ページの中であなたに会えていること自体が奇跡であることをよく理解してほしい。

例えばモデルの仕事ではオーディション、フィッティングや撮影の時など服の邪魔にならないように常に肌色の下着を着る。私の肌の色に馴染むようなベージュ系の下着はほとんどないので「肌色」の人が着るものを身につける。撮影する際の服が下着の見えない形や素材であれば問題ないが、透けている素材の場合、私の肌の色では明らかに「肌色の下着」は浮いてしまっていて「肌色の下着」の役割を果たしておらず、いつもブランドやスタイリストさんに対して申し訳なく感じていた。もちろん海外には私の肌の色に馴染む下着があったかもしれないが、今ほど知られていたわけではないことと、BLM以降により多様化していったように思う。

どう考えても身体的にお金にならない私を「かっこいい」のひとことの言葉でモデルに誘ってくれた前事務所の社長は永遠に私の恩師だ。ファッションは目に見えないかっこいいを売る仕事だと今も信じてる。

私の「元」の肌の色というのは一体どの箇所をいうのだろうか。顔と比較すると、胸やお腹は明るいし、かといってお尻などの紫外線が当たらない部分であるにもかかわらず肌の色が暗く、特に脚は上半身と比べても格段に色が暗い。このように日焼けをせずとも、パーツによって色が違う私のような肌はとても捉えづらい。
将来シミができるのかさえ私にはわからないが、最低限の肌のダメージを防ぐために日焼け止めを塗っている。色白でないわたしはすでに七難を晒し続けていると思うが、自分にとっての肌の健康と美しさを守っていけるように独自に調べながら試していくしかないのだ。

モデルの仕事を始めたての頃は、プロのメイクさんは皆きっと誰よりも私の生かし方を知っているはずだろうと、一点の疑いもなく身を任せていた。だがプロのメイクさんでも私の肌の色は難しく、白浮きするような仕上がりになることがあった。アジアの血が入ったハーフでもない上に、パーツで肌のトーンも違うため、正直とても難しかったと思う。無駄に硬派で謙虚だった私は、プロの最大限がこれということは「私の肌の色」がこの世の中でも特に良くないのだろうと思いを仕舞うようにしていた。

しかし仕事をしていく中で、当たり前に私の肌の色を生かすことができる、色彩感覚がとても優れてるベテランの人にも多く出会っていった。特にレジェンドのメイクアップアーティストUDAさんにメイクしてもらった時はいままでにないほど美しい肌にしてもらった。私の肌色のファンデーションのトーンに黄い色を混ぜることで自然と馴染む仕上がりになり、私は「あぁ私の肌の色でもメイクをしてもいいんだ」と心の底から認められた気持ちになった。今でこそ知ることができたが、「南アジア系」の肌の色は特に難しいと業界でも言われているそうだった。普通のファンデーションを塗ると、なぜか全体的な印象が「緑」「カーキ」になる。それは他の色の濃い人種の黒人の肌の色とも違う。UDAさんはそのベースの色味を自然と「黄色」で打ち消したのだろうと理解できた。ベースとなる色が全く違うし、肌のトーンも本当に様々であるから、まだ南アジアの人種の肌に特化した化粧品の開発は進んでいないのだろうなと推察した。

そういった様々な技法をメイクさんたちに教えてもらいながら、初めてデパコスや海外のブランドだったら自分に合ったものを見つけることができるとアドバイスしてもらった。有色人種のモデル仲間にも「仕事の時、ファンデーションの色どうしてる?」と聞くと、「念のためいつも自分のファンデ持ち歩いてるよ、私たちの色持ってない人もいるからね」と教えてもらい、そんな技もあるのかと学習する。無駄に謙虚だった私はプロのメイクさんにそんなことしていいのかと驚いたが、どんな経緯があれど、容姿のコンディションが悪く見えてうまく写れないことで仕事がなくなるのは私たち側だ。美しく写ることは死活問題なんだと学んだ。

ブルベ春やイエベ夏などのメイクのあれこれから整形や美容医療まで、世に溢れていて流れてくる情報は無限にある。そういったものに当てはまらず参考にできないことというのも、マイノリティの一種の孤独でもある。そうして自分に不足する部分を、圧倒的な想像力で賄う必然性が生まれる。技術の革新はもちろん先進国の白人からのトップダウンだったわけであって、今ではその構造も変わりつつあり、私が偶然にも育ってしまったアジア圏にはもちろんアジア人が大多数で、彼らのための情報に溢れていて当然だ。

自分の特異性も十分に理解しているので、そういったことに文句はないが、このような時に感じる孤独というのはきっとマイノリティ同士、その経験がある者でないとわかり合えないものなのかもしれない。未来から見た私はただ時代の転換に挟まってしまっているだけの存在かもしれなくて、これからもっと色んな技術が進歩し、私にも想像がつかなかった価値観が生まれていくだろう。

でも一見こんな個人的に見える経験や思考は、同じ立場のマイノリティの人にとってだけではなく、実はマジョリティにとっても新たな発見の機会になるかもしれない。そもそもその「マイノリティ」と「マジョリティ」の立場だって、地域と時の運で常に変わり続けているのではないか。私はこのうねるような時代の転換期に一つでも多くの焦点を打つように、アーカイブを残しているに過ぎないのだ。

特集「色とりどりの人生」をもっと読む

Profile

シャラ ラジマ Sharar Lazima バングラデシュにルーツを持つ東京育ちのモデル、文筆家。あえて髪を金に染め、青いコンタクトをして、容姿からは人種が容易に判断できないようにすることで、「人種のボーダレス」を表現している。2023年、フォーブスジャパンの「世界を変える30歳未満の30人の日本人」を受賞。

Magazine

JUNE 2024 N°177

2024.4.26 発売

One and Only

私のとっておき

オンライン書店で購入する