映画『ミツバチと私』の監督が踏み込む、“恥”のメカニズムと家族のこと
主人公のアイトールを演じたソフィア・オテロが第73回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。当時9歳だったオテロは史上最年少の受賞となり、大きな話題を呼んだ映画『ミツバチと私』。オテロが演じた8歳のアイオールは男性として生まれたが、「女の子になりたい」という願望を持つ。トランスジェンダーというテーマだけでなく、母、祖母ら3世代の視点をまじえ、自分の性別に思い悩む子どもがいる家族の変化を描き、世界各国で賞賛された『ミツバチと私』を、本作で長編劇映画デビューを飾ったスペインの新星、エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督の言葉とともに紹介する。
バスク地方の豊かな自然と共に、“本当の自分”に目覚めて変化する様を描く
夏のバカンスでフランスからスペインのバスク地方にやってきたひとつの家族。男性として生まれた8歳のアイトールは自分の性自認がわからず、“坊や”という意味を持つ“ココ”という愛称に違和感を覚えるなど、周囲に心を閉ざしていた。「男の子なんだから男の子らしい髪形にしたら」という声に対し、愛息の思いを察する母・アネは「そのままでいい」「“男だから”とか“女だから”とかは関係ない」と口にし、アイトールの意志を尊重する。
そんなアネに対し、祖母は「幼い子に自由にさせ過ぎるのはよくない。親が線を引いてあげることも必要」と諭す。さらに、祖母は著名な彫刻家である父が残した工房を使って、作品作りに勤しむアネに向かって、「子どもは一人にしろと言ったのに3人も産んだ」と心ない言葉をぶつける。できる限り子どもたちの意志を尊重しようとするアネもまた、仕事との向き合い方や祖母との関係性という問題を抱えているのだ。
アイトールは叔母が営む養蜂場を訪れ、ハチが高度な社会性を持っていることを知り、自らの境遇と重ねるなど、バスク地方の豊かな自然に触れる中で、徐々に心をほどいていく。初めての友達もでき、少しずつ心が柔らかくなっていく。ある日アイトールは、教会に描かれた聖ルチア像の壁画を見て、祖母から自分の信仰を貫いた聖ルチアのことを聞かされ、「自分もありのままの姿で生きていきたい」と願う。「女の子になりたい」という願望からドレスを着用しようとするが、保守的な父親に反対され、傷ついたアイトールは行方をくらましてしまう──。
本作の冒頭には「実際の目ではなく心で見る」というメッセージが映し出される。心に従い“本当の自分”として生きることの難しさ、そして、さまざまな出来事を経て、家族に変化が訪れる様を、緑豊かなバスク地方の美しい風景と共に細やかに描いたエスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督。以前からトランスジェンダーの問題を意識し、トランスジェンダーの子どもを持つ家族への取材を重ね、約5年をかけて『ミツバチと私』を完成させたという。
「みんなが話題にすべき現実を観客に認識してもらうために映画を作っている」
──厳格なジェンダーの枠組みを問う必要性を感じ、『ミツバチと私』のストーリーが生まれたそうですが、必要性を感じた理由を教えてください。
「2018年、バスク地方で16歳のトランスジェンダーの少年が自殺してしまったことがきっかけで、『このような痛ましい事件が起きてしまうのは社会に問題がある』と考えるようになりました。バスク地方でトランスジェンダーの子どもを持つ親を支援する団体の協力のもと、すぐに実態を取材し、『この問題を伝えなければいけない』と強く思いました。1年間をかけて、5歳から12歳までの生まれた時に与えられた性別とは異なる性を自認する子どもを持つ親から話を聞き、脚本の初稿に取り掛かりました。取材を始めてから3年経った頃、未成年のトランスジェンダーの問題がより取り上げられるようになったことに気づき、当事者家族の変化にフォーカスするために、前に取材した親の方々にさらに話を聞きに行きました。書き始めた脚本をきちんと現実を反映したものにしたかったからです。そこから資金集めに2年ほどかかり、撮影と編集をし、制作には計5年かかりました」
──以前からトランスジェンダーの問題を意識していたそうですが、オリジナルの脚本による長編映画として描こうと思ったのはどうしてでしょう?
「脚本を書く段階では『長編映画にしよう』と決めていましたが、最初に親御さんたちに話を聞きに行った時は、まだ明確な方向性はなく、とにかく悲しくて、そうせずにはいられなかった感覚でした。以前は未成年のトランスジェンダー問題のことを取り上げるメディアはありませんでしたが、少年の自殺をきっかけにテレビ番組や新聞にトランスジェンダーの子どもを持つ家族が出演し、現実を語る機会が増えました。自殺した少年は、自分の家族には受け入れられていたのです。彼が命を絶つ決断をしたのは、社会に認知してもらうためでした。そこで私が知りたいと思ったのは、トランスジェンダーの情報や支援がない中で、彼の家族がどのようにして息子に寄り添うことができたのかということです。取材を重ねる中で、問題との向き合い方は各々の家族で違うということを実感しました。取材を重ねていく過程で、それぞれの家族における感情の変化や、家族に自分の性自認の悩みが受け入れられたことで、当事者の子どもが普通の子どもと同じように素直に振る舞っている幸せな姿を目の当たりにしました。彼らに強く共感しましたし、新しい視点で世の中を見ることができ、映画を見る人たちにも同じような気持ちになってもらいたいと思いました。さらに、映画に登場にする家族に感情移入してほしいとも思いました。彼らは社会の中で、理不尽な非難の目を向けられがちです。彼らの立場に立ってみることで彼らの思いを理解してもらえると思います」
──トランスジェンダーを扱った映画は数多くありますが、インスピレーションを受けた作品はありますか?
「ありません。今作のインスピレーションはすべて当事者家族の取材から得たものです。ただ、他の映画で描かれたことを描いて二番煎じにはなりたくなかったので、参考にはしました。例えば、フランス映画の『トムボーイ』やベルギー映画の『ぼくのバラ色の人生』などです。でも、例えば『ぼくのバラ色の人生』では、主人公の少年が実生活で自分らしく生きられずに、ファンタジーの世界に生きているように見えました。『ミツバチと私』の主人公のアイトールのことは、アイトールの家族も含めた現実世界を描きたかったので、そういう描写は避けました。また、『ミツバチと私』はアイトールだけでなく、その母親や祖母、姉や兄の視点も描いているので、複数の視点で物語が進むという部分は主人公の視点だけで物語が進む『トムボーイ』とは異なります」
──アイトールの父は保守的である一方、母・アネは「男だからとか女だからとか関係ない」と直接伝え、息子に理解を示します。二人の対比にはどんな思いを込めましたか?
「現実に基づいた設定です。当事者家族に最初に取材した際に、父親が取材に参加する家族はおらず、来るのは決まって母親たちでした。母親たちは子どもの心境を完全に理解できていなくても、『寄り添おう』という気持ちがありましたが、父親たちは違いました。2020年に入ってからの取材には参加してくれる父親が何人か現れました。劇中のアイトールの父親像は、単に保守的で不寛容な男性ということに加え、『彼なりに息子(・・)を守りたい一心でもある』と、演じた俳優に伝えました。あの父親は、アイトールに対して家の中で女の子の振りをして遊ぶ分には構わないけど、外で遊ぶといじめられると思い、息子のためを思ってああいう態度をとってしまう。でもそれは間違った親心です。この父親は息子(・・)に幸せになってもらいたいけど、傷ついてもらいたくはない。でも、アイトールは自分らしく生きられなければ幸せにはなれないので、そこにはパラドックスが存在しています。この矛盾にまた父親は葛藤してしまう。映画の後半で父親が家族と一緒に住み続けているのは、彼が単なる保守的で不寛容で攻撃的な父親ではない証です。母親から『アイトールの心は女の子だ』と告げられ、アイトールがいなくなってしまった際、家族を見捨てることもできたのに、彼はそうしなかった。息子が女の子の心を持っているという状況を理解し、受け入れるまでに時間が必要だということなのでしょう」
──アイトールの母であるアネはアイトールのトランスジェンダーの問題と向き合いながら、仕事や子育てにおいて母との確執も抱えています。アネを通して描きたかったこととは?
「矛盾を描きたかったです。彼女はオープンな考え方を持っている人で、子どもたちにできる限り自由を与えて、性別に縛られることなく生きてほしいと思っています。一方で、自分の役割がはっきりと見えておらず、それが仕事との向き合い方に支障をきたしています。自分の両親が自分に与えた影響に関しても、幼い頃からずっと父親に憧れ続けて、母親を蔑ろにしてきたせいで、実は父親がアネの彫刻の才能を評価していなかったことに気づいていなかった。父を聖人君子のように崇めていたため、なぜ自分が好きな彫刻を仕事にしなかったのかを冷静に見ることができていなかったのです。それはなぜかというと、恥をかくことを恐れたからです。この“女性と恥”というものが本作の核です。男性に支配された社会において女性が受ける“恥”という不可抗力のメカニズムがそこにはあります。この“恥”は大叔母も抱えています。嘗て愛してはいけない人を愛したがために、小さな村で後ろ指を刺された過去がある。祖母も夫がアトリエに来るモデルの女性と関係を持つことを止めなかったという“恥”を抱えています。アネもまた、『恥ずかしい』という思いから、周りから何と言われようと彫刻と向き合うことを避けてきた。そして、幼いアイトールも周りからの視線によって、“恥”というものを感じ始めています。男性に支配された社会では“恥”は女性や枠にはまらない者たちをコントロールするためのメカニズムなのだと哲学者のマーサ・ヌスバウムが語っていますが、『ミツバチと私』に登場する女性は全員“恥”を抱えています」
──長編劇映画デビュー作となった『ミツバチと私』でベルリン国際映画祭銀熊賞に加えてギルド映画賞をW受賞される等、高い評価を得ました。これほどの評価を得たことに対し、どんな思いがありますか?
「最初の長編劇映画を作るにあたり、細かい部分まで全てのことが気になって、不安でしょうがありませんでした。先のことを考える余裕はなく、目の前のことに精一杯やっていて、気づいたら結果がついてきました。映画が評価されたことは非常に嬉しいです。私たちは、みんなが話題にすべき現実を観客に認識してもらうために映画を作っているので、多くの映画祭で上映され、多くの観客に届けることができたことはどんな賞をもらうよりも達成感を得られました。『ミツバチと私』に込めたテーマ、嘘のない物語を大勢の観客に観てもらうことが私にとって一番の幸せです」
──監督は近年スペインでは女性の映画監督が活躍されているということに対し、「以前から女性監督は存在していて、彼女たちに正当な評価が下されなかっただけ。スペイン映画界は全盛期を迎えていて喜ぶべきだが、踊らされないように気を付けなければいけない。まだまだ理想には辿りついていない」とコメントしています。どういうところが改善すべき点だと思いますか?
「改善すべき点はたくさんあり、簡単には答えられません。私自身も性差別を経験したことがあります。ポスト・プロダクションの会社に勤めていた時、男性の同僚と同じ業務をしていても彼らより給料が少なかった。残念ながらそれが現状です。この社会が男性と女性の力関係を今まで通り維持していくために存在するメカニズムは、『これさえなくせば問題は解決する』と言えるほど、はっきとり目に見えるものではなく、何層にも入り組んでいるとても複雑な構造があります。それは家族の構造から始まり、私たちのものの見方も関係しています。女性は時に『自分がこの場にいるのはふさわしくない』と思ってしまうこともあります。自然とそう思ってしまうのは、それが本質的なものだからなのか、子どもの頃からずっと刷り込まれたものだからなのか。長い間刷り込まれる考え方を根本から変えるのはとても難しく、時間もかかります。社会全体の問題なので、個人ではなくみんなが協力して取り組まないといけません」
『ミツバチと私』
監督・脚本/エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン
撮影/ジナ・フェレル・ガルシア 美術:イザスクン・ウルキホ
編集/ラウル・バレラス
出演/ソフィア・オテロ パトリシア・ロペス・アルナイス アネ・ガバライン
https://unpfilm.com/bees_andme/
2024年1月5日(金)より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開
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Interview & Text:Kaori Komatsu Edit:Chiho Inoue