ホンマタカシが見た東京2020
作家として制作を続ける傍ら、しなやかにファッション撮影にも取り組む──。 そんなホンマタカシも小誌に欠かせない写真家の一人。 東京をテーマに撮り続ける彼は特別だった2020年一年を通して、何を考えていたのだろうか。(『ヌメロ・トウキョウ(Numero TOKYO)』2021年1・2月合併号掲載)
コロナウィルスはさまざまな物事に影響を与えた。誰しもがマスクを着けて、パーソナルスペースを少し広めに取るようになり、多くの場所では透明フィルムや衝立が取り付けられ、出入り口には消毒のためのアルコールが設置されている。 目に見える変化として現れたそうした風景は、寄れば寄るほど自分に関わるため変化に気づかざるを得ないが、引いて見たとき、その風景は以前とそれほど違っていない気もしてくる。変わったようで変わっていない、変わっていないようで変わった2020年の日本を、写真家ホンマタカシはどう捉えているのか聞いた。
同じように見えて違う風景
「コロナ以前から撮っていた東京の風景が、コロナ禍によって、一見同じなんだけど違って見えるということに興味がある」と話すホンマは東京をテーマに写真を撮り続けてきた。 一見同じに見えるけれど違って見える風景を求めて、ホンマは自粛期間中、いつもより多く写真を撮っていたという。「今までのように仕事に追われるという状況がなくなって時間ができたとき、自分は何をやるんだろうかと思ったら結局写真を撮っていました」。公共交通機関に乗ることがなくなったホンマは近所を散歩しながら、多くはiPhoneで、時にフィルムカメラで風景を撮っていった。その写真は動画とともに映像作品になり、between the booksのYouTubeチャンネルで「ホンマタカシ tokyo 2020」として公開されている(映像中の写真や動画はすべてiPhoneで撮影されたもの)。巨木よりも根っこ的なもの
ホンマがキノコを撮った写真集『Symphony その森の子供 mushrooms from the forest』(Case Publishing)が、2020年のパリ・フォトで「PHOTOBOOK OF THE YEAR」にノミネートされているが、ホンマがキノコを撮り始めたのは、今回と同じく緊急事態宣言が出された東日本大震災で福島第一原発の事故が起きたときだった。キノコは放射性物質を吸収しやすい特性があり、2011年の秋には、東北から中部地方の森に生える野生のキノコの摂取と出荷が政府によって制限もされた。地震や津波によって直截な被害を受けた風景ではなく、見た目にはこれまでとまったく変わらない、土がついたままの採れたての野生のキノコを撮ることで、ホンマは大きな出来事と向き合ってきた。
「ロシアの作家のチェーホフが好きなんです。日本では大作家的な扱いですが、ロシア文学の世界ではドストエフスキーやトルストイなどに比べて、短編小説しか書いていないチェーホフは比較的小さな存在です。ロシア文学の研究者で翻訳家の沼野充義さんが書いたチェーホフ論の中で、チェーホフを“ロシア文学の中のキノコ”と言っているんですね。それにすごく共感して、もともと別々に好きだったチェーホフとキノコが繋がったんです。つまり、チェーホフが好きで、キノコの写真も撮っていたけれど、ただキノコを撮っていたわけではなく、キノコという存在が、ドストエフスキーのようなみんなが崇める巨木ではなくて、チェーホフと同じような小さな根っこ的存在なんだということです。そして、僕は巨木よりも根っこのようなものが好きなんです」
「震災のときと同じで、こういうときだからこそ(NYのような大きな被害のある場所を撮るのではなく)自分の足元の風景を撮りたいと思った」とも話してくれたホンマの言葉は、まさにキノコとチェーホフに向けた視線と同じものだ。ウィズコロナでニューノーマルな生活様式という、危機が常態化したようなこれからの日常は、いわゆる“決定的瞬間”ではなく、持続する時間と風景を撮るニューカラー的な写真家であるホンマにとって、不安定な時間が続いていく新しい風景の現れなのかもしれない。
撮ることより、見て、扱うことを
コロナ禍で一気に普及したオンラインビデオ会議では、モニターには常に自分の顔があり、自分の顔を見ながらしゃべることが普通のことにもなった。ずっと慣れないという人もいれば、インスタライブをする人やユーチューバーたちにとってはこれが普通であり、一つの出来事で大きな差が生まれてもいる。
先生として大学で教えているホンマは、オンラインでの授業を新しい映像体験として面白く受け止め、今後リレーナショナルアートの文脈などで、オンラインビデオ機能を使った新しい写真作品や映像作品が間違いなく出てくるだろうと予想する。そして映像の配信やビデオ通話、高画質の写真を簡単に撮ることができ、自由に編集、加工もできる今、写真を撮ることより、見ることや扱うことこそ練習、勉強すべきだとホンマは言う。それはホンマが東京大学の建築学部と武蔵野美術大学の空間演出デザイン学科で授業をしているなかで感じていることでもある。どちらも空間に関することを学ぶ学科、学部であり、写真学科や映像学科のように“撮る”ことを中心とするのではなく、写真を“扱う”ことをテーマに授業を行っている。大学でホンマがやっているのは、自分の知っている知識を教えることではない。ホンマが出した課題に対して学生がどんな反応をして作品を提出してくるかを見る、ある種の実験的なワークショップ形式だ。大量に撮ることが簡単にできるがゆえに選びきれない現代への問いかけとして、“扱う”という考え方で写真の可能性や力、面白さを引き出そうとしている。
写真や映像イメージがあふれる今、写真の力を最大限引き出すためには、撮るという行為だけでは難しいのかもしれない。ホンマの写真を見て、言葉を聞いていると、むしろ自分が撮らずとも、すでにあるイメージをどう扱うかという視点と方法論を持つことで、写真はもっと面白くも魅力的にもなるのだと思えてくる。
「『2020TOKYO』というタイトルで一冊の写真集が作れる。NYにいる友人と一緒に、東京とNYが半々の写真集にすれば、より批評性があるものが作れるかもしれない」と、2020年という年をどうまとめることが可能か、ホンマは日々写真を撮りながら考えているようだ。今回掲載しているホンマが撮ったコロナ禍中の何げない東京の風景を、今後ホンマはどんな視点で“扱い”、まとめていくのだろうか。
Photo:Takashi Homma Interview & Text:Hiroyuki Yamaguchi