ヴァージル・アブロー「人々は僕をインスタグラム現象とみなしました。僕が誰なのか、僕の任務が何なのかを誰もわかっていなかった」
独学でファッションを極めたアメリカ出身のヴァージル・アブローは、衝撃的な飛躍力でルイ・ヴィトンのメンズ アーティスティック・ディレクターに任命された。傑出したDJであり、建築家の資格を持つ頭脳派ともいえる彼は、自身のブランド「オフ・ホワイト」の成功によって、真のミレニアルの伝道者、または“ツァイトガイスト”と評される今という時代を象徴するクリエイターの一人となった。2018年6月21日にデビューを飾ったルイ・ヴィトンの19年春夏コレクションは、相反する要素や多様性を掲げて新しい時代の幕を開くとともに、ストリートとラグジュアリーを結ぶベースを見事に築いたのだ。アブローは今回、仏版ヌメロ・オムのために19年春夏コレクションの代表的なアイテムを纏って、ジャン=バプティスト・モンディーノの被写体となった。(『ヌメロ・トウキョウ』2019年4月号掲載)
ストリートカルチャーはコミュニティから生まれた
2018年3月26日、ヴァージル・アブローはルイ・ヴィトンのメンズアーティスティック・ディレクターに任命された。以前から噂は飛び交っていたものの、嘲笑的で保守的なファッション業界にこのニュースが大きな波紋を投げかけたのは言うまでもない。なぜって? それは若きアメリカ人アーティスティックディレクターのプロフィールは、恵まれた出自やWASP(ワスプ)、あるいはヨーロッパ特有のエリート文化を纏ったファッション関係者たちからは、敬遠されているものだったから。
イリノイ州生まれのヴァージル・アブローは、90年代のストリートカルチャーから頭角を現した一人だ。彼らのストリートファッションは、新世代のクリエイターたちがこぞって敬愛する圧倒的なパワーそのものだ。「説教するのは好きじゃない。なぜなら、僕自身そうされるのが嫌いだから」とアブローは言う。とはいえ、彼は今やルイ・ヴィトンのラグジュアリーファッションとバイタリティあふれるアンダーグラウンドを結びつけるミッションを果たしている。「人はストリートファッションを単なるスタイルやデザインの一つと思っているようだけど、ストリートカルチャーというのは“コミュニティ”だということをわかっていませんね」パリのルイ・ヴィトン本社で彼は語る。「このコミュニティのスタイルは、スケートボードを楽しむことや、路上に座って友達と時間を共に過ごすといったことから来ています。友人たちのライブに行ったり旅先では友達の友達の家に泊まったりなど、僕はこういった90年代のストリートファッションとヒップホップのコミュニティの中で育ちました。僕たちの美意識は、こうしたライフスタイルから生まれたものなんです」
彼らのいうアンダーグラウンドでは、音楽(その中でもヒップホップ)が最も重要な役割を担っている。そしてこの動きが生まれてから40年たった今、ラップの売り上げがロックを超えて世界的な記録となっている。にもかかわらず、貧困に追いやられたアメリカの少数派から生まれたそのサウンドは、意図的に排除の対象となっているという現実がある。TVシリーズの『アトランタ』で主演を務めた俳優で、脚本や監督も担当したドナルド・グローヴァーは、17年のゴールデングローブ賞のセレモニーの舞台裏で、世界的に貴重なラッバーであるミーゴスというグループについて、こんな指摘をしている。「僕たち世代にとってはビートルズ的存在である彼らを、世間では『アトランタ』の音楽を除いては十分にリスペクトしていないと思う。でも、今は新しい世代が次々と登場している。その代表的な存在がユーチューブ世代であり、世間から無視されがちなストリートカルチャーの“コード”とともに成長している。僕もその一人なんです」
ヴァージル・アブローをルイ・ヴィトンの頂点に導いた要素の一つに音楽、詳しく言えばヒップホップの存在抜きでは語れない。イリノイ州ロックフォードで80年に生まれたことは、この運命をすでに予測させているかのようだ。130キロ余り離れたシカゴではハウスミュージックが鳴り響き、スピーディなリズムとラップが奏でる新しいフットワークが生み出されていた。
カニエ・ウエストとの出会い
「シカゴのカルチャーにおいて、音楽はとても重要でした。MTVやラジオのおかげもあるし、友達を通して音楽からたくさんの影響を受けていた。僕のコミュニティが聴いていた音楽、それが僕のお気に入りとなったんです」子ども時代からアブローは音楽漬けの日々を送った。17歳の頃にはパーティでDJをするようになった。「こうして僕はデビューした。レコードショップを荒らし回り、レコードを買って仲間や学校のパーティでDJをしていたんだ。もちろん大学でも続けて、今に至っている。DJっていうのは、ヒップホップでは大切な役を果たしているんだ(彼のサウンドアイデンティティの構成にはサンプリング、スクラッチも加わっている)。僕にできることは、これだって実感していた。これが僕の90年代におけるヒップホップカルチャーへの関わり方だった」
そして、世界的なスーパースターであり、重要なインフルフエンサーの一人であるラッパー兼プロデューサーのカニエ・ウエストとの出会いがやってくる。02年、アブローは彼のクリエイティブディレクターとなり、ツアー衣装やグッズ、ステージのデザインなどを担当することになった。カニエ・ウエストが自身のブランドのDONDAを始めると決めたとき、アブローはファッションのみならず、あらゆる冒険にお供することになった。09年にはローマのフェンディ本社で、二人一緒にステージに立った。
同年、アブローは仲間のドン・Cと共にシカゴでコンセプトストアのRSVPギャラリーを立ち上げた。今でもサカイ、ハイダー・アッカーマン、ラフ・シモンズといった先鋭のファッションブランドやOAMC、パーム・エンジェルス、アベイシングエイプ®といった人気のストリートブランド、アディダス、ナイキ、ジョーダンなどのスポーツブランドなども扱っている。コレット(17年に閉店したパリのセレクトショップ)風にブティックとギャラリーが交じり合うスペースで、ジェフ・クーンズやカウズのオリジナル作品を置いたこともある。当時モードとアートの融合という新しい試みであったルイ・ヴィトンと村上隆のコラボレーションが、どれほど彼に影響を与えたことか。アブローはこのことを機会あるごとにインタビューで語っている。この革新的なアイデアの引用で、RSVPギャラリーは独自のヒットをもたらすことになる。
11年にカニエ・ウエストのアルバム『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』のジャケットを描いた画家のジョージ・コンドが、このジャケットがプリントされたスカーフのシリーズ化をギャラリーに提案し、今やコレクターズアイテムとなって、一点が1500ドル以上で売買されている。ファレル・ウィリアムスをはじめ、ルーペ・フィアスコといったシカゴのラッパー、それにザ・ウィークエンド、トラヴィス・スコット、ビッグ・ショーンなど音楽界のスターたちが定期的に参加して、エクスクルーシブなコラボアイテムやTシャツなどが話題になり、RSVPギャラリーは注目を集めることになった。
オフ・ホワイトの誕生
ポップカルチャーとヒップホップカルチャーの驚異的な広がりは、世界規模で繋がるSNSを味方につけることで、膨大な消費のみならず文化的価値をも生み出すというパラダイムを築いた。そしてこの時代の変化を作り上げている率役者こそがヴァージル・アブローとカニエ・ウエストであり、キッズたち新世代にとっての伝道者的存在になったともいえる。過去の曲のリメイクアルバムを出したかと思えば、ドキュメンタリーフィルムを撮影したり、ファッションブランドを創立したりもする彼らは、マルチな肩書きを持つ“スラッシャーズ”現象の体現者である。ただ、いろんなことに手を出すが故に何者でもない、と嘲笑の対象であったのも確かだ。が、ヴァージルこそがポストスラッシャーであり、ダブルカルチャーを持つ豊かさがあり、スラッシュ(あるいはハイフン)に価値を与えたといっても過言ではない。
アメリカに移住したガーナ人カップルの間に生まれた彼は、自身のダブルカルチャーを十分に自覚しつつ成長していく。「この二重のベースは、僕の教養の一部をなしています」と彼は続ける。「青春期から定期的にアフリカに行っているし、両親はまだガーナに家を所有しています。もし両親がずっとそこに暮らし、アメリカに移住していなかったら、自分の人生はどんなものだったかを常に考えていました」。
12年、彼は実験的に展開していたアートプロジェクト、パイレックス・ヴィジョンから生まれたファッションブランド「オフ・ホワイト」を創設する。ナイキ、ジミー・チュウ、それにカールステン・ヘラーなどのアーティスト、あるいはエイサップ・ロッキーをはじめとするミュージシャンたちとのコラボレーションによって、ブランドは瞬く間に輝いた。「僕の美学は一つではない。それこそがオフ・ホワイトなんです。つまり、文字どおり一度に二つのものなんです。一つでなければならないという価値観を追っ払いました。それによってアイデアを伝えること、あるいは矛盾していることについて、自由になろうという力がもたらされます。それが僕であり、それこそが人間的なのだと」
オフ・ホワイトのコレクションは、先入観を排したヒエラルキーゼロのリュクスとストリートファッションのダブルコードをミックスしている。メンズコレクションを重ねるごとに、90年代のミニマリズムを再解釈したテーラリングやファッションアイテムとしてのアウトウェア、絶妙な効果をプラスしたハイテク素材のトータルルック、あるいはドレープのあるシンプルなポロなどモダンなアイデアが提案され、それらはラフ・シモンズ、ミウッチャ・プラダ、マルタン・マルジェラといった偉大なデザイナーたちのコレクションについて彼が完璧な知識を持っていることを示している。時にダイレクトすぎる影響が見受けられると眉をひそめる批評もあるが、カラフルなグラフィックプリントや“You Cut Me Off”といったスローガン、美しいデニムのバリエーションは、機能性にエレガンスを加え、生き生きとしたコレクションに仕上げられている。グレイトフル・デットやオアシスの関連グッズを再解釈したプリントTシャツなど、バラエティにも富んでいる。
パリのクチュール&プレタポルテ協会は15年1月から、オフ・ホワイトをパリコレクションのオフィシャルカレンダーに受け入れており、今や待ち焦がれるショーイベントの一つになった。招待されたファッション関係者たちは、ショーとともに、アブローらが体現するコミュニティを目の当たりにすることになる。つまり、アーティストやミュージシャン、若いスタイリスト、ヴァージル・アブローの友達、またコネクションを最大限利用してショーに入り込むのに成功したファンといった、異種混合のオシャレな若者たちがそこにいる。彼らが求めるのはモードの提案だけではない。クリエイターが選んだサウンドに乗せて、クリエイターが彼らに発する気分、メッセージ、ダイレクトなコミュニケーションを受け取りにやって来るのだ。フロントロウには、フューチャー、スワエ・リー、ナズといったヒップホップやラッパーたち、アブローの友人や著名人が並び、会場の興奮をさらに盛り上げる。インスタグラムのエキスパートであるアブローは、若者たちに直接メッセージを送り、ファンの間に熱狂を起こし続ける。フィルハーモニー・ド・パリで行われた17年春夏コレクションのショーに“ヴァージルキッズ”たちを招待してオフ・ホワイトのプレスオフィスに大迷惑をかけ、正真正銘の騒乱を巻き起こしたこともあった。またシークレットパーティでは、疲れ知らずのアブローが自らDJを買って出たりなどもした。こんなふうにしてほんの数年のうちにブランドは世界的な文化現象となっていた。
アーティストとのコラボが話題を呼ぶ
批評家たちはいまや、インスタグラムを用いるクリエイターの影響力を賞賛しはじめている。ちなみに現在オフ・ホワイトのインスタグラムのフォロワーは4800万人(19年2月5日現在で6500万人)と膨大な数字となっているが、大切なことは現代のファッション業界が開催するカルチャーイベントやパーティに、必ずヴァージル・アブロー自身が参加をしているという点にある。例えばオフ・ホワイトのサイトには、アブローが15年に家具コレクションを発表した際にデザイン界の評論家であるアンヌ・ボニーに書かれた批評を引用し、こう掲載している。「アブローはストリートムーブメントの自由さと豊かさを知り尽くしている。彼のコレクションはアートやストリートからのインスピレーションを、音楽やカルチャーに精通するネット世代のインタラクティブな言語と混ぜ合わせて発信しているのだ。オフ・ホワイトのシグニチャーである横断歩道のグラフィックモチーフや、ダニエル・ビュラン(フランスのコンセプチュアルアーティスト)のラインを想起させるグラフィックなモチーフは、彼の都会的なルーツであり、彼のコレクションのDNAをなしているのだ」
アート界の世界的なスターである村上隆とルイ・ヴィトンが00年代に行ったコラボレーションは、アブローの人生における決定的な出来事の一つとなった。シカゴのストリートカルチャーの中で育つ無知なキッズたちが、存在すら知らなかった美術館やギャラリーといったエリートが集う世界を目のあたりにしたのだから。
去年開催されたヴァージル・アブローと村上隆のコラボ展覧会は、二人がワッツアップで会話を重ね、共通言語を見つけ出してきたという。商品開発とアートという異なる背景を持つ二つのエレメントは、ヒエラルキーなど存在しない場所でこそ、自由な対話がもたらされる。アブローはデビュー当時から、このダブルネームでのプロジェクトを企てていた。ツァイトガイスト(時代を表すスピリット)を無意識に持ち合わせていることこそが、アブローの偉大な才能であるのだ。彼は「マルセル・デュシャンは僕の弁護人だ」と宣言しているように、レディメイド=既製品のアイデアを自分のものにする。構造の作り直し、転換、あるいは引用。ストリートファッションが試行するこうした要素が、アイロニーやクォーテーションマーク(“”)で囲んだ言葉をベースにしたグラフィックのアイデアを生み出している。「僕はクォーテーションマークの中で話すことがよくある」と言う。クリエイターたちは自分たちのファッションを知覚化することを拒むことが多いが、アブローは各商品、各コラボレーション、各カプセルコレクションにマニフェスト的な商品説明をつける。これこそ、アブローが先輩デザイナーたちと根本的に対象をなしている部分であり、ファッションを学ばずにここまできたクリエイティブ・ディレクターとしてのバックボーンといえよう。
建築からインスパイアされたクリエイション
彼はシカゴでまず工学を学び、建築課程へと進む過程で、自分と世界との関係、クリエイションとの関係を考える方法論を授けられた。ビルこそ建築しないものの、アブローは感覚の合理的な組み立てに日々取り組むことになる。「建築はその本質上、分野を超えた学科です。僕はイリノイ工科大学の修士号を持っていますが、ここの教育課程はモダニズム建築の三大巨匠ミース・ファン・デル・ローエによって考えられたもので、キャンパスも彼による建築です。シカゴの建築はとても豊かで、僕がこのイリノイ工科大学で学んでいる頃には、レム・コールハウスの建築事務所OMAが僕たちの学生タワーの建築を終えようとしていました。建築は単に建物をデザインすることではなく、カルチャーを創造するもので、僕の出発点となっています」。
OMAは建築プロジェクトを展開する前に、AMO(OMAの研究機関)による社会学や歴史、都市計画などを交えたリサーチを行う。そんなコールハウスの精神にインスパイアされて、僕は家具のコレクションやTシャツを生み出すクリエイションを考えた。「これが僕をインスパイアするレム・コールハウスの知的なプロセスなんだ」と彼は言う。
「アイデアを検討し、推論の結びにふさわしい美を見つけるというやり方。デザインチームに僕が期待しているのが、これなんです。僕がすることのすべては、熟考を重ねた結果です。僕はファッションを消耗品の製造に至るまでの芸術的な文脈として捉えています。芸術的なことはすべて、人々の日常生活に直接的なインパクトを与えますし、商品を購入することによって、人はムーブメントに参加できるわけです。これが僕の考え方なのです」
ルイ・ヴィトンでの華々しい初コレクション
アブローの方法論は、18年6月に行われたルイ・ヴィトンでの最初のショーのためにまとめられた「ヴァージル・アブローによるボキャブラリー、用語の自由な定義とアイデアの説明」というタイトルにも見ることができる。ショー会場のゲストの椅子に置かれた覚書は、コレクションを理解するための言葉や用語のパーソナルな定義を収めた辞書のようなもの。アイロニーの項目には“新しい世代の哲学。ヴァージル・アブローのルイ・ヴィトンにおける存在”と書かれていた。また、新語“マルジェライズム”は、アブローに与えたマルタン・マルジェラの大きな影響を表している。芸術史におけるオリジナルとコピーの概念から派生した姿勢だ。例えばある物をオリジナルなクリエイションに転換させるには、3パーセントの変更だけで十分だとアブローはいう。そのセオリーは彼のショーで発表されたルイ・ヴィトンのアイコニックなバッグ(キーポルをオーロラフィルムのように光るPVC素材に変える)などに適用された。
アブローによるルイ・ヴィトンのための最初のコレクションでは、エチオピアの飢餓救済のためのチャリティソングとして世界的に有名になった「We Are The World」(1985年)にちなんで、社会的メッセージも同時に表明した。6月21日、パレ・ロワイヤルの庭で行われたショーはレインボーカラーで彩られ、先が見えないほどに伸びたランウェイ、同じ色のTシャツを纏ったパリのモード学校の1000人の生徒たちをショーに招待するという試み。彼はショー・メモの中で、マンチキンを救うためにオズの国に着陸したアメリカ中西部の農婦の物語である『オズの魔法使い』に触れている。コレクションには、この映画に出てくる黄色いレンガの有名な道から取った、とても美しいモチーフのセーターも登場した。素晴らしい運命を実現した同じく中西部の出身であるアブロー自身の軌跡と重ね合わせている。
従来のカスタマイズやエレガントなスポーツウェアは少なくなり、ラグジュアリーにもストリートにも通用する個性的で独創的なファッションが市民権を得始めた。リズミカルに付いたファスナーポケットやカードホルダー、財布などを付けたベルトやベストといった“アクセサモーフォシス”のコンセプトは、アブローのアメリカ的な機能性へのこだわりが色濃く反映されている。ルックはさまざまなレイヤーの重ね合わせで構成され、カラーブロックがグラフィックなコントラストを描いている。モデルたちは手袋とバッグをカラーコーディネートして、その効果をより強調している。オフ・ホワイトの成功の一つでもあるプリントは、刺繍やフロック加工といった職人仕事のディテールで表現されている。
ヴィジュアル的にインパクトのある、インスタグラム・フレンドリーなこのショーは完璧なスペクタクルであり、ファミリーの集いでもあった。フロントロウにはカニエ・ウエスト、キム・カーダシアン、リアーナ、トラヴィス・スコット、カイリー・ジェンナー、ナオミ・キャンベル、キム・ジョーンズ、村上隆…。また、有名なモデルたちや、ラッパーのキッド・カディ、プレイボーイ・カルティ、エイサップ・ナスト、さらにスティーヴ・レイシーやデヴ・ハインズといったミュージシャンたちの姿もあり、皆一様に、アブローへの称賛で満ち溢れていた。
メッセージではなくカルチャーを発信する
彼のコレクションを纏ったモデルがランウェイを歩くだけでなく、社会におけるコンテンポラリー・ファッションの挑戦と多様性を示唆するキャスティングであった。ボキャブラリーリストに加え、アブローは客席のベンチに、モデルと両親のバラエティに富んだルーツを描いた早見表も置いた。「僕は、これまでモード界の外にあったコミュニティからやって来た。僕にとって多様性は肌の色を問うものではなくて、コミュニティこそが多様性なんです」と説明する。アブローがルイ・ヴィトンでデザインし、ショーの2カ月後に行われたラッパーの2チェインズの結婚式でカニエ・ウェストが着用したスーツについて、より政治的な発言をRefinery 29(ミレニアム世代から絶大な支持を受けるライフスタイルメディア)のサイトで試みている。
「カニエと僕はファッションが大好きで、二人とも独学です。今日、僕たちはファッションに携わり、それを自分たちのイメージで進めています。このイメージは僕にとって、雑誌で9月号のカバーを飾った黒い肌のあらゆる女性たち(アメリカンヴォーグ9月号のビヨンセの表紙、ブリティッシュヴォーグ9月号のリアーナの表紙についての暗示)と同じくらい大切なものなんです」。けれど6月21日にパレ・ロワイヤルを燦然と輝かせたレインボーのように、LVMHの新しい救世主によるショーは、もっと多様な要素が混じり、普遍的であったといえる。
「僕にはメッセージはない。自分のカルチャーを主張するだけです。僕がどこから来たのかを見せることが最初のショーの意味だった。僕は宇宙からやって来たわけじゃありません。今までに経験してきた山ほどの出来事が、僕のルイ・ヴィトン就任に一役買っています。ファレル・ウイリアムスとマーク・ジェイコブスのコラボレーションや、東京からロンドン、ニューヨーク、ロスなど、あらゆるストリートファッションも同じ例えなのです。人々は僕をインスタグラム現象とみなしました。僕が誰なのか、僕の任務が何なのかを誰もわかっていなかった。僕のコレクションには3パーセントの新しい試みによって、クラシックとモダン、新旧が並列しています。実際に見てみれば、僕が言わんとしていることを理解できるはず。それこそが、デザインとファッションのとてつもなく大きな力なのです」
by Delphine Roche Photos : Jean-Baptise Mondino Realisation : Jean Michel Clerc Translation : Mariko Omura