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    <title>Numero TOKYOYonethropology | Numero TOKYO</title>
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    <description>クリエイションが詰まったインターナショナル・モード誌『Numero TOKYO』のWEBサイト</description>
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        <title>米原康正×マリエ対談「00年代のギャル〜ハーフモデル文化」</title>
        <link>https://numero.jp/yonethropology08/</link>
        <pubDate>Thu, 14 Dec 2017 07:46:06 +0900</pubDate>
        <lastpubDate></lastpubDate>
        <status>1</status>
        		<category><![CDATA[Yonethropology]]></category>
		<category><![CDATA[Culture]]></category>
		<category><![CDATA[Yasumasa Yonehara / 米原康正]]></category>
		<category><![CDATA[interview]]></category>
		<category><![CDATA[special]]></category>
        <description>
            <![CDATA[<article><p class="first_section"><p class="picture"></p>
<p>アムロからあゆへ、そしてハーフモデルの時代<br />
</p>
<p>米原康正「今日のゲストはマリエさんです。2005年から『ViVi』の専属モデルとして活動してきたわけだけど、まず、ハーフモデル時代の前日譚となる、ギャル文化について整理しましょう。まず、ギャルに支持されたカリスマといえば、アムロちゃんとあゆがいるけれど、同じように見えて全く違うものでした」 </p>
<p>マリエ「女の子が世界に対してセクシュアリティを発信したかったという点は一緒だけど、アウトプットが異なっていたし、出ている雑誌も違いましたよね」</p>
<p>米原「アムロちゃんの時代には〈セレブ〉という概念がなかったけれど、あゆの頃から海外文化が入ってくる」</p>
<p>マリエ「2005年頃、パリス・ヒルトン、リンジー・ローハンのセレブブームがあって、ブリトニー・スピアーズはその前から活躍していたけれど、年齢は彼女たちと同世代です」</p>
<p>米原「あゆが持ってきた外国文化は大きかった気がするな。そして2004年に藤井リナちゃんが『ViVi』に登場して、2005年にエリーローズやサラ。マリエちゃんは2006年ぐらい？」</p>
<p>マリエ「そうですね。その頃には、ネットでセレブと同じものが買える状況でした。スタバのヴェンティを持って道を歩いているような、海外のセレブスナップも大流行しましたね。でも、アムロちゃんはそんな中でも独自のものを守ろうとしていたような気がします。だからこそ、今でも多くの人に愛され続ける存在なんだと思います」</p>
<p>米原「そもそも〈ハーフモデル〉という言葉自体、出てきたのは2004年。藤井リナちゃんのデビューと同時期だよね。それまで『S Cawaii！』の一大勢力があって、そこに道端アンジェリカが出ていた。2003年頃から徐々に『ViVi』がそのノリを取り入れ始めた。ブランドでいうとマウジーを取り上げたり」</p>
<p>マリエ「『ViVi』は『S Cawaii！』を3,000円くらい底上げしたようなセレブ感をプラスしてましたよね」</p>
<p>米原「『S Cawaii！』は『JELLY』や『nuts』のオシャレ版。読モではなく、プロのモデルに近い女の子が登場していたよね。ギャル文化の流れを汲んでいた『S Cawaii！』に対し、『ViVi』は岩堀せりちゃん、佐田まゆみちゃんが活躍していて大人の雰囲気があった」</p>
</p><p></p><p class="picture">S__28549212</p>
<p>藤井リナが変えたギャルの概念</p>
<p>米原「マリエちゃんはハーフモデルとして活躍してきたわけだけど、ハーフという存在は、かつていじめの対象とされた時代もあったんだよね」</p>
<p>マリエ「そうなんですよ。草刈正雄さんともよく話していたのですが、ハーフの人権が認められたのはわりと最近です。かつては背景に戦争があって、その後、映画業界や芸能界がハーフをモデルとして認めてくれたという経緯があったけれども、私や私の姉も子どもの頃はいじめられました。だから、ずっとハーフはコンプレックスで、親に『どうしてインターナショナルスクールに入れてくれなかったの？』と泣きついたこともありました。でも、周囲の認識が変わっていき、ハーフは憧れの存在になった。きっと、LGBTも10年経てば今と状況は変わるはずです」</p>
<p>米原「芸能活動はいつから？」</p>
<p>マリエ「姉が『CUTiE』のモデルをしていたので、お姉ちゃんと同じことをしたくて10歳の頃からモデルを始めました。その頃、読んでいた雑誌は『CUTiE』と『Zipper』。年齢が上がるにつれて、せりちゃん真由美ちゃんに憧れて『ViVi』を読むようになって。その後、『ViVi』の専属になれました。」</p>
<p>米原「あの当時、藤井リナちゃんを『SWEET』と『ViVi』が奪い合ったりしていたよね。彼女の出現は、ギャル文化のひとつの転換点だったと思う。リナちゃんはティアラをつけたじゃない？ それまで『CUTiE』以外の女の子はティアラや小さい帽子なんかつけてなかった。ある意味で〈変な子〉の象徴のアイテムだったけれど、それを彼女は打破したんだよね。『ViVi』が他の赤文字系と違うのは、男目線をあまり気にしてないところだと思うんだけど」</p>
<p>マリエ「そうですね。男の子にどう思われたいかと考える人もいれば、女の子の憧れになりたいという人もいました」</p>
<p>米原「男目線とファッションという意味では、2002年に『mini』が65万部まで売れたんだけど、裏原宿のサイズダウンした服を女の子が着ていた。当時僕は、『mini』で活躍していた今宿麻美や花楓ちゃんと一緒に『smart girls』というちょっとエッチな雑誌を作って、女性誌で表現していることを男性誌に舞台を変えるとどうなるだろうという試みをしていたんだけど、そこに藤井リナちゃんも出てくれて」</p>
<p>マリエ「当時の『ViVi』モデルは、ビキニはOKだけど下着撮影はNGというモデルは多かったけれど、リナはどれも楽しんでた印象はあります。彼女自身、行くとこまで行ったるという勢いがあったし、男の子にも女の子にもカッコいい存在として思われたい意識もあったと思う」</p>
<p>米原「上半身ヌードも赤文字系はNGだったから、藤井リナはかなり変えたよね。その頃、『LIP』という雑誌で、ファッション系のフォトグラファーにグラビアを撮らせたりしていて、それまでのグラビア観を壊す試みをしていたんだけど、それに『ViVi』以前のリナが出てくれたんだよ」</p>
<p>マリエ「リナはセクシーなんだけど、女性からも支持されているのが重要なポイントだった気がします」</p>
<p></p><p class="picture">S__28549209</p>
<p>グローバルな時代に現れた「ハーフになりたい」願望<br />
</p>
<p>米原「ハーフモデルブームで言うと、2009年頃から〈ハーフ顔になりたい〉特集が組まれたりして、言葉が一人歩きした印象があるんだけど、その時はどうだった？」</p>
<p>マリエ「益若つばさちゃんを始めとする、プロデュース能力が長けている世代が登場した時期ですね。〈ハーフ顔になりたい〉っていうのは魅力的なフレーズだった。でもその頃、モデルになれる身長がぐっと下がったんです」</p>
<p>米原「欧米系のハーフから、アジア系のハーフも多く登場するようになった。韓国系とのハーフだと、ほとんど顔つきは変わらないんだけど」</p>
<p>マリエ「〈ハーフ〉という言葉への漠然とした憧れなのかな」</p>
<p>米原「男の子でも、日本人が日本を忘れていく一方で、ハーフの子が日の丸を背負ってサムライみたいになってる現象もあるよね」</p>
<p>マリエ「バランスをとっていきたいですよね。ものづくりの世界では、メイドインジャパンが大事だとずっと言われていたけど、それが私は不思議に感じていて。いいものは産地じゃなくて、自分で判断できるはず。世界を見て動く時代になっているわけだし」</p>
<p>米原「ヨーロッパにいったら、ハーフどころか16くらいの人種が入っているのが普通。そうなると『ハーフって何』という話になる」</p>
<p>マリエ「これまでの人生で3回留学したんですけど、日本にいると外国人だと思われて、海外に行くとアジアの子と言われます」</p>
<p></p><p class="picture">IMG_5996</p>
<p>マリエが見据える次なる世界</p>
<p>米原「モデルやタレントとして活躍していたマリエちゃんが、2011年に突然、NYのパーソンズに留学したけれど、その理由は？」</p>
<p>マリエ「まず、私が事務所と正式に契約したのが18歳で、ちょうど進路に迷っていた頃だったんです。そこに、バラエティタレントとモデルのお誘いがあって。当時からパーソンズには行きたかったけれど、お金も必要だし、大学はどんなタイミングでも行けるから、それなら今は必死で頑張ろうと決めたんです」</p>
<p>米原「マリエちゃんが活躍していた頃は、オバカタレントが売り出されていた時代だよね」</p>
<p>マリエ「バラエティ自体も変化した時で、同世代の子が一律でオバカタレントに括られていました。それと同時に登場したのが、タレントさんの公式ブログ。それによって、タレントさんが身近な存在になりましたが、タレントの間でも賛否はありました。私は表現したいことがたくさんあったから、ブログは2つ掛け持ちしてやってました。ますます時代は変わり続けるから、自分の柔軟性が問われる時代ですよね」</p>
<p>米原「芸能界が、一般視聴者の目線に立ち始めたんだよね。憧れの存在から、同じ価値観をもつことが良しとされて。それには思うことも色々あるけれど。NYでファッションを勉強して、2012年に日本に戻ってきたわけだけど、今後は？」</p>
<p>IMG_5981</p>
<p>マリエ「今、北海道から沖縄まで、バンドの〈ザ・モッズ〉のツアーバスを借りて、地方の自然や生物がどうファッションと関わっているかを見るツアーをしているんです。オーガニックブームもあり、生産者の顔が見える商品は注目されていますよね。野菜でも農家さんの顔写真があったほうが信頼されたり、オーガニックコットンも生産者を出したり。その一方で、作り手や企業が、買い手の顔が見えてるのか気になっていて。SNSがあるとはいえ、フォロワーも〈いいね！〉の数もお金で買える時代だから、本当は誰が商品を買っているのか、作り手が見えていない。そこを繋げる作業をしていきたいと思っています」</p>
<p></p><p class="picture">IMG_5976</p>
<p>米原「それが次のやりたいことなんだね」</p>
<p>マリエ「私はこれまで、ファンの子たちや周囲の人に助けられてきました。自分の夢を追求したいと言ったときも、みんなが応援してくれた。自分のやりたいことを追求したり、アートに触れたりする中で、自分でいいものが判断できるようになって、生きることが楽になったんです。だから、私の知識や、私なりのセンスの磨き方を伝えていければ。それがヒントになって、今、迷っている若い子たちが自分のやり方を見つけてくれたら幸せですね。その機会として、こういう場を広げていければいいなと思っています」</p>
<p>米原「偉い！ 次の世代に対してちゃんと考えてるんだ」</p>
<p>マリエ「でも、こうやってよねちゃんと話していると、またセッションしたくなりますね。今度、ぜひ撮ってください」</p>
<p>米原「ぜひやりましょう！」</p>
<p class="picture">S__28549210</p>
<p>第6回「スナックよね。」<br />
日時／近日発表　　※ホームページにてご確認ください。<br />
※トークショー（無料）とスナックタイム（学生¥500 一般￥1000）の二部制。<br />
ゲスト／近日発表　※ホームページにてご確認ください。<br />
会場／テクノロジーラボ<br />
住所／東京都渋谷区神宮前3-27-22 ルコタージュビルディング2F<br />
TEL／0120-900-926<br />
URL／http://tfl.tokyo</p>
<p></p><p>The post 米原康正×マリエ対談「00年代のギャル〜ハーフモデル文化」 first appeared on Numero TOKYO.</p></article>]]>
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        <title>80〜90年代の原宿カルチャーを振り返る「スナックよね。」</title>
        <link>https://numero.jp/yonethropology06/</link>
        <pubDate>Sat, 26 Aug 2017 23:30:11 +0900</pubDate>
        <lastpubDate></lastpubDate>
        <status>1</status>
        		<category><![CDATA[Yonethropology]]></category>
		<category><![CDATA[Culture]]></category>
		<category><![CDATA[Yasumasa Yonehara / 米原康正]]></category>
		<category><![CDATA[interview]]></category>
		<category><![CDATA[special]]></category>
        <description>
            <![CDATA[<article><p class="first_section"><p class="picture"></p>
<p>原宿のファッション・テクノロジー・ラボを拠点に「原宿にカルチャーを取り戻す」ために、定期開催している「スナックよね。」。今回のゲストは、女優の渡辺真起子。現在につながるストリートカルチャーを知るふたりの体験談を交えた、トークの一部をご紹介！</p>
<p>大人予備軍『JJ』 VS 大人になりたくない『CUTiE』</p>
<p>米原康正「まずは、80年代の渡辺真起子を取り巻く環境から。当時は、75年創刊の『JJ』や82年創刊の『CanCam』など、後に赤文字系と言われるような大人の女性になるための雑誌が中心だった。その中で89年に個性的な雑誌『CUTiE』が登場し、そのカバーガールを務めるわけだけど、そもそもモデルになったきっかけは？」</p>
<p>渡辺真起子「1986年、18歳でモデルを始めました。当時すでに女優になりたいという希望があったんだけど、どうすればいいのかわからなくて。服も音楽も好きな高校生でバイトもしたい。それならモデルはちょうどいいんじゃないかと考えて、意味もなく原宿をブラブラしました。そしたら、ラッキーな事に初日に『プチセブン』の読者モデルとして声をかけられて、その後、事務所が決まって本格的にモデルとしての活動を始めて」</p>
<p>米原「最初は、女優になりたかったんだ」</p>
<p>渡辺「そう。それでモデルを始めたんだけど、当時のモデルは今よりクラシックなスタイルだったから、和装も毛皮も着てランウェイで歩いて、雑誌もカタログからウェディング、モードなど、幅が広かったんですよ。デパートでファッションショーがあった時代ですからね。全般的になんでもやらなくちゃいけないから、事務所に言われてハイヒールと下着を3色揃えて、化粧品も一式買って、自分でメイクをすることもありました」</p>
<p>米原「ポージングはレッスンで習うの？」</p>
<p>渡辺「実践的なレッスンで、それは役に立ったよ。そこからオリジナルのポージングがあるとすれば、ファッションショーでコートを引きずって歩いたり、ランウェイを走ってみたりとか。私は桐島ローランドさんが同期ぐらいなんだけど、みんなそういうことで新しさやオリジナリティーを出そうとしてたと思う」</p>
<p>米原「87年に『CUTiE』は『宝島』の別冊として登場するんだけど、その存在は、すでに知ってた？」</p>
<p>渡辺「もちろん。宝島っ子だったから」</p>
<p>米原「89年に『CUTiE』が月刊化するけれど、表紙モデルに決まった経緯は？」</p>
<p>渡辺「編集、スタイリスト、ヘアメイクの人が集まった会議で、私の名前が出たらしい。その時、私の仕事も勢いがあって、CMにも出演してたし『ELLE JAPON』にもモデルとして出たの。その当時、モード誌は海外モデルが当たり前だったんだけれど、東洋人モデルを使うという連載企画の2回目に選ばれて。それは、私のキャリアにとっては世界が変わるくらい、センセーショナルなことだった。色々な魅力のあり方を業界も探していたんだと思う。経済誌では、〈今はブス顔が流行り〉と記事にされたくらい（笑）」</p>
<p class="text" style="margin: 0 0 20px 0;text-align: center;font-weight: bold;font-size: 120%">『CUTiE』のクラブスナップはストスナの元祖</p>
</p><p></p><p>The post 80〜90年代の原宿カルチャーを振り返る「スナックよね。」 first appeared on Numero TOKYO.</p></article>]]>
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        <title>米原康正主宰！ 原宿発信のトークイベント「スナックよね。」開店</title>
        <link>https://numero.jp/yonethropology05/</link>
        <pubDate>Fri, 12 May 2017 11:02:45 +0900</pubDate>
        <lastpubDate></lastpubDate>
        <status>1</status>
        		<category><![CDATA[Yonethropology]]></category>
		<category><![CDATA[Culture]]></category>
		<category><![CDATA[Yasumasa Yonehara / 米原康正]]></category>
		<category><![CDATA[interview]]></category>
		<category><![CDATA[special]]></category>
        <description>
            <![CDATA[<article><p class="first_section"><p class="picture"></p>
<p>かつては新しい文化の発信拠点だった原宿。今や観光地化が進み、カルチャー性が失われつつある。「どうしたら原宿にカルチャーを取り戻すことができるのか」をミッションに、トークショーと交流会（スナックタイム）の2部構成で行われる。記念すべき第1回は、原宿カルチャーの創成期をまとめた『70’ HARAJUKU』（小学館）を上梓したスタリスト・中村のんがゲスト。原宿とファッション業界を知り尽くすふたりの貴重なトークの一部をご紹介！</p>
<p>70年代、ファッションは原宿から始まった</p>
<p>米原康正「『スナックよね。』店主の米原です。僕が上京したのは1978年で、当時の原宿は敷居が高い街でした。1981年頃から、ロックンローラーや竹の子族が出現して、地元の人たちの街から、今や観光客向けの街に変わっていったんですが、その理由や今後の可能性を話し合う場所になればいいなということで、この企画が始まりました。今日はスタイリストの中村のんさんに、原宿の70年代について話を聞こうと思います。のんさんの原宿スタートはいつから？」</p>
<p><br />
「MILK」「セントラルアパート」1階のアイドルご用達ブランド。Cute shop「MILK」/1975/Goro Some</p>
<p>中村のん「私は14歳の頃から。原宿ファッションの幕開けは70年代ですよね。1970年に『ミルク』、菊池武夫さんの『ビギ』、1971年に『ゴローズ』が登場し、雑誌『an・an』が創刊。当時、世田谷の自宅から日曜日は千駄ヶ谷に英語を習いに行っていたので、その足で原宿に通うようになったのが最初です」</p>
<p>米原「戦後から1964年の東京オリンピックまで代々木公園一帯に『ワシントンハイツ』という在日米軍の宿舎があり、原宿は米軍の街だったんですよね。僕は岩城晃一さん担当のライターだったので、彼に連れて行ってもらったのが最初なんだけど、今、ラフォーレ原宿がある場所には教会があったし、外国人向けのテーラーがあったし、『キディランド』も外国人の子ども向けにバービー人形を売ってました。僕の奥さんもスヌーピーのぬいぐるみ買いに来たみたいです」</p>
<p><br />
「キディランド」は日本で最初にバービー人形を販売した店。Toy shop「KIDDY LAND」/1974/Alao Yokogi</p>
<p>中村「ビートルズが来日したときに、ジョン・レノンがホテルを抜け出して『オリエンタルバザー』に行ったというエピソードもありますよね。コープオリンピアのスーパーマーケット『ユアーズ』も、外国の食材を置いていました。でも、街のほとんどが住宅地で、竹下通りもとんちゃん通りも地元の商店街でした」</p>
<p>米原「伝説の喫茶店『レオン』も、普通の喫茶店だったんですよね」</p>
<p>中村「チーズケーキとコーヒーを売るような喫茶店ですよ。そこに、クリエイター、モデル、芸能人が集まって。私がレオンに通い始めたのは、17、8歳くらいの頃かな」</p>
<p><br />
「レオン」の朝。「LEON」in the morning/1972/Goro Some</p>
<p>米原「当時、すでにスタイリストという職業はありました？」</p>
<p>中村「『an・an』の創刊と同時に、高橋靖子さんや原由美子さんがスタイリストとして活躍されていましたね。私は18歳で高橋靖子さんのアシスタントになったのが、この業界に入るきっかけです」</p>
<p>米原「高橋靖子さんといえば、デヴィッド・ボウイのスタイリングですよね」</p>
<p>中村「1970年代は、デヴィッド・ボウイが山本寛斎さんの服を着たり、フォトグラファーの鋤田正義さんがボウイやイギー・ポップの写真を撮ったりして」</p>
<p>米原「70年代は日本のクリエイターが、世界で活躍していた時代でした。ニューヨーク・ドールズのヘアも野村真一さんが手がけていたし、ジョン・レノンとオノヨーコの『ダブル・ファンタジー』も篠山紀信さんが撮影していた」</p>
<p>中村「スタイリストやコピーライターなどの横文字職業が脚光を浴びたのも70年代から80年代でした。当時は、石を投げればクリエイターに当たるような街でした」</p>
<p></p>
<p class="text" style="margin: 0 0 20px 0;text-align: center;font-weight: bold;font-size: 120%">ファッションが生き方だった時代</p>
<p></p>
</p><p></p><p>The post 米原康正主宰！ 原宿発信のトークイベント「スナックよね。」開店 first appeared on Numero TOKYO.</p></article>]]>
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        <title>こじはるが劇場にたった2005年という時代の意味</title>
        <link>https://numero.jp/yonethropology04/</link>
        <pubDate>Thu, 11 May 2017 10:50:29 +0900</pubDate>
        <lastpubDate></lastpubDate>
        <status>1</status>
        		<category><![CDATA[Yonethropology]]></category>
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            <![CDATA[<article><p class="first_section"><p class="picture"></p>
<p>ブームを作るのは社会の枠から外れた少数派女子</p>
<p>2000年前後、渋谷109を中心にブームを起こしたカリスマ店員そしてカリスマデザイナーたちが受けた理由は、なかったものを作り出したからの一言に尽きる。彼女たちは、自分たちで着たいものを作り、そしてその世界観を自分たちがそれを着ることでプロモーションした。当時の女子たちの満たされなかった共通意識を具体化させたのである。ところが、彼女たちが成功して金銭的な成功を収めた途端、メディアは彼女たち自身の製作物ではなく、それを売ることで得た収入で購入した高価なもの（一番がハイブランド）をどのくらいもっているかで彼女たちを評価し始める。</p>
<p>これは藤井リナを頂点とした日本人の代表だったはずのハーフモデルの存在が、メディアによって日本語のわかる外国人扱いされていく経過と同じである。ハーフモデルがブームになった2004年、彼女たちは東京を中心とした、地元を持ったリアルなストリートの代表者だった。ところが、2005年からギャル系雑誌の特集で「ハーフモデルになりたい」という特集が組まれだす。ハーフモデルのようになるためには、こんな化粧品を使おう、こんなファッションにしようと消費のアイコンとして彼女たちが起用され始めたのである。</p>
<p>ハーフじゃない人間がどんなに頑張ったってハーフモデルになれるわけない、ってギャル系雑誌で仕事をしながら僕はなんかむなしさを感じていた。学校の中で例え90パーセントがハーフモデルになりたくても、残りの10パーセントはそうじゃないはずだって僕は思っていた。</p>
<p>1995年、『egg』という雑誌のコンセプトを考えた時、そこで扱う女子は多数という日本の基準から外れたアウトローたちだった。のちにコギャルという文化を作る彼女たちだけど、当時ルーズソックスにミニスカートなんてクラスにひとりいればいい方だった。僕が追いかけたいもの、それは社会の枠から外れた少数派だ。僕が日本でティーンエイジャーの女子を追いかけている理由がそこにある。<br />
カリスマ店員、カリスマデザイナー、そしてハーフモデル、彼女たちの文化が始まった時、彼女たちを認めたのは彼女たちと同様の価値観を持った社会の枠から外れた少数派だった。</p>
<p>もしかすると日本のシステムが変わるかもしれない。そんな文化が台頭するたびに僕はそう思った。だけど、そんな彼女たちも気づけば日本のシステムの中で、創造から消費へとその意味を変えられていく。そしてその結果、少数派（マイノリティ）は多数派（メジャー）になってしまう。</p>
<p class="text" style="margin: 0 0 20px 0;text-align: center;font-weight: bold;font-size: 120%;display:block;">アイドルをトイレで“チェキ”る！</p>
</p><p></p><p>The post こじはるが劇場にたった2005年という時代の意味 first appeared on Numero TOKYO.</p></article>]]>
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        <title>ART PHOTO TOKYO -edition zero- 米原康正の新たな表現「ランナーズパイ」</title>
        <link>https://numero.jp/yonethropology02/</link>
        <pubDate>Fri, 16 Dec 2016 10:13:33 +0900</pubDate>
        <lastpubDate></lastpubDate>
        <status>1</status>
        		<category><![CDATA[Yonethropology]]></category>
		<category><![CDATA[Culture]]></category>
		<category><![CDATA[photo]]></category>
		<category><![CDATA[exhibition]]></category>
		<category><![CDATA[Yasumasa Yonehara / 米原康正]]></category>
        <description>
            <![CDATA[<article><p class="first_section"><p class="picture"></p>
<p>「ART PHOTO TOKYO -edition zero-」の会場内でもひときわ歓声が上がり、“ピンク色”だった米原康正によるインスタレーション。今回はこのインスタレーションを披露した部屋と、写真を展示した部屋のふたつのスペースを使って世界観を表現。展示スペースでは、女性を被写体に、ジオラマ用人形を使って撮影している新シリーズがお披露目となった。<br />
　<br />
</p>
<p>公開初日のレセプションにはSM嬢が参戦。来場する観客へ『SMプレイ』のサービスが…。</p>
<p class="picture"></p>
<p class="picture"></p>
<p>「初日だけですが、モデルになってもらった女王様たちをゲストに『SMプレイチェキサービス』をやらせていただきました（笑）」</p>
<p></p>
<p class="text" style="margin: 0 0 20px 0;text-align: center;font-weight: bold;font-size: 120%;display:block;">「ランナーズパイ」って何？</p>
<p></p>
</p><p></p><p>The post ART PHOTO TOKYO -edition zero- <br>米原康正の新たな表現「ランナーズパイ」 first appeared on Numero TOKYO.</p></article>]]>
        </description>
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        <title>中国ファッション誌とモデル事情とは？</title>
        <link>https://numero.jp/yonethropology03/</link>
        <pubDate>Wed, 30 Nov 2016 11:22:32 +0900</pubDate>
        <lastpubDate></lastpubDate>
        <status>1</status>
        		<category><![CDATA[Yonethropology]]></category>
		<category><![CDATA[Culture]]></category>
		<category><![CDATA[Yasumasa Yonehara / 米原康正]]></category>
        <description>
            <![CDATA[<article><p class="first_section"><p class="picture"></p>
<p>中国で毎年行われているファッション誌「瑞麗」のカバーガールオーディション。プロ、アマ問わずチャレンジできる大規模なオーディションで、応募総数は14万人を超える。選ばれた10名の女性は専属モデルとなり、発行部数160万部を誇る誌面での活躍が約束されるのだ。日本ではあまり知られていないこのオーディションが2016年、知名度向上のためにはじめて日本大会を実施した。日本人モデルが今、中国に挑戦する意味とは？</p>
<p>──中国のファッション雑誌が提案する女性像とは？</p>
<p>「日本との圧倒的な違いは色っぽさ。アンジェラベイビーが人気なのを見ても分かるように、男性目線で大人のセクシーな魅力を持つ女性が憧れの対象となっているよね。かといって媚びるエロとかモテファッションという訳ではなく、グラマラスな女性らしさ見せるという意味。女優だとファン・ビンビン（范冰冰）とか、リー・ビンビン（李冰冰）みたいな強さと色気が求められていて、日本の“カワイイ”カルチャーは全くウケない。クラブに行っても、ボディコンシャスな服を着て、足を出している女の子が溢れているのが中国。ただ最近、中国もメディアのデジタル化が進んでいて、本を売ることよりも『人を集めること』と『ネットショップでモノを売ること』への注力にシフトしている。モデルも服を着るだけじゃなくて発信力が必要になっているからSNSでどれだけ人気かもかなり重要。僕が編集長をやっている中国民間航空会社『上海吉祥航空有限公司』の機内フリーペーパーでも表紙モデルにしたEVE（SNSはこちら）っていう子は、中国初の男性目線を気にしないモデルなんだけど、彼女はモデルをやりながら洋服のブランドも手がけているマルチプレイヤー。EVEが着ると服が売れる。自分の言葉で色々と語れるだけの主張があるんだよね。日本のモデルは、例えば公式SNSを事務所が発信していてもある一定のファンができるかもしれないけど、中国は違う。見る側もかなりシビアだから、自分の言葉でSNS配信できているかはポイントだったりする。インフルエンサーと一括りにしないで、誰が何をどんな意図でレコメンドしているかの意味を考える力とか作業には、日本人も学ぶところがあると思う」</p>
<p>写真／日本大会ファイナリストのクリス優（左）、honoka（右）</p>
<p></p>
<p class="text" style="margin: 0 0 20px 0;text-align: center;font-weight: bold;font-size: 120%;display:block;">チャイナドリームを掴んだ日本人モデルは？</p>
<p></p>
</p><p></p><p>The post 中国ファッション誌とモデル事情とは？ first appeared on Numero TOKYO.</p></article>]]>
        </description>
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        <title>進化する原宿「ジェンダレス男子」のこれから</title>
        <link>https://numero.jp/yonethropology01/</link>
        <pubDate>Wed, 07 Sep 2016 09:45:39 +0900</pubDate>
        <lastpubDate></lastpubDate>
        <status>1</status>
        		<category><![CDATA[Yonethropology]]></category>
		<category><![CDATA[Culture]]></category>
		<category><![CDATA[interview]]></category>
		<category><![CDATA[Yasumasa Yonehara / 米原康正]]></category>
        <description>
            <![CDATA[<article><p class="first_section"><p class="picture"></p>
<p>原宿のWONDER PHOTO SHOPにて、チェキフォトグラファー米原康正が監修するフリーマガジン「CHEKI-SHA（チェキ写）」の写真展が開催されている。ここにモデルとして登場しているのが、アパレルショップ「WEGO」を中心に活動する「読モBOYS＆GIRLS（以下 読モBG）」所属の10～20代の男子たちだ。常に街のリアルなガールズカルチャーを見つめてきた米原康正がここ数年、原宿渋谷を拠点にする女子だけではなく、男の子たちを撮り続けている。いま、若者文化を語るのに、男女を分けるのはナンセンス。ファッションの世界でも「ノージェンダー」というワードは注目されているが、東京で起きている現象は、海外のそれとは異なる特殊なカルチャー。いま、若者たちの間でどんな文化が産まれているのか？ 米原康正と、「WEGO」PRでありながら「読モBG」を生み出し、「ジェンダーレス男子」創作者でもある丸本貴司が対談。</p>
<p>「ジェンダーレス男子」カルチャーの立役者<br />
丸本貴司が見つけた「こんどうようぢ」「大倉士門」「とまん」</p>
<p>米原「丸本くんと出会ったのは2012年だよね。WEGOのPRになる前は何してたの？」</p>
<p>丸本「2012年は、僕が編集者を辞めた年なんです。『BiDaN』というヘアカタログの編集部で、ヘアカタログの世界だとちょうど、ビジュアル系人気からジャニーズ系に流れて行く時代を経験して、KAT-TUNとか水嶋ヒロさんがよく表紙を飾っていました。それが休刊になってしまって。SNSが強くなり、雑誌が淘汰された時期だったんだと思います」</p>
<p>米原「当時は僕が、渋谷系から派生した悪羅悪羅（オラオラ）系って呼ばれる雑誌『ソウルジャパン』を取り上げていた頃。そこは完全に男子だけの世界だったんだけど、彼らが付き合っている子とか女の子たちが美人で、『ソウルシスター』っていう女性版悪羅悪羅系雑誌が創刊されそれがすごい反響を得た時代でもあるんだよね。全国的にも主流はヤンキー。だからまだ、ジェンダーレス男子って少数派だったと思うんだよね。そもそも女子のカルチャーは細分化されていて、とくに「カワイイ」のジャンルって種類も色々あるし面白い子が分かりやすかったと思うんだけど、どうしてカワイイ男の子たちを集めることになったの？」</p>
<p>丸本「まさに『ソウルジャパン』もそうなんですけど、売れるティーン誌の傾向が、いわゆるメジャーではなくなっていたんですよね。誰でもマネできる平均値よりも、見たことない面白いやつを読者が見たがっているなって思って。だから、最初は男の子を集めようって思ってはじめた企画ではなく、SNSで人気の子を探してみたら、たまたま男子が多かった。象徴的だったのが、こんどうようぢです」</p>
<p class="picture"></p>
<p>写真／大倉士門（左）とこんどうようぢ（右）<br />
『ヌメロ・トウキョウ』2014年11月号にて米原康正が撮影</p>
<p>米原「女の子って色んなタイプが許されてたけど、男の子ってそれがいままでは許されなかった。特に2012年はまだ、男らしくないことがマイノリティとされていたでしょう。ようぢくんはTwitterで見つけたの？」</p>
<p>丸本「Twitterです。すでにモデルとして活躍していた鈴木勤とやりとりしてる中で、ファッションが面白い奴がいるなと思って。リストバンドを買うお金がないからってケーブルコードで手首をぐるぐる巻きにしていたりとか、着こなしが自由すぎて。そういう子って、たとえば学校でも少数派だし、雑誌に出たりしたら一定数に叩かれるタイプですよね。マイノリティだと思われる子たちなんだけど、SNSの中では褒められていてファンを持っているんですよ。そんな子たちが集まってできたのが読モBGです」</p>
<p>米原「その当時、ようぢはどのくらいのフォロワー数だったの？」</p>
<p>丸本「2000人くらいですかね。それが今は27万人強。当初は2000人でもすごいなって僕は思っていたんですよ。だって、クラスにいたらちょっと変な奴って思われいるような一般人に2000人のフォロワーってすごくないですか」</p>
<p>米原「でも、ここまで成長するって思って仕掛けてたの？ というのも、僕が1992年に『egg』を考えた時に似てるんだよね。まだギャルとかコギャルって言葉が生まれてなくて、雑誌は別の女性像を扱っていた頃。街では、普通のメディアが扱ってない女子の方が圧倒的な人気を持っていた。渋谷に出現したチーマーの彼女たちがすごいかわいくて、メンズの服をサイズダウンした着こなしがお洒落で。制服だとミニスカートにルーズソックスで、私服だとアメカジ。僕の場合はまずは雑誌の中にその子たちを入れるという形をとった。丸本くんの場合は、SNSのリアルな人気者をWEGOとかけ合わせたよね」</p>
<p>丸本「僕の時代の雑誌はカタログ化が進みすぎていて、誰にでも当てはまる人が好まれていたんですよ。例えばヘアカタログでいうと、黒髪じゃないとモデルに呼ばれないとか、ある種すごく保守的。街に色んな髪色の人がいても少数派だと雑誌では扱いにくい図式になっていました。そこから漏れててもったいないと思って声をかけたのが、ようぢです」</p>
<p>米原「あと、読モBGの面白さがSNSとマッチしたのって、トークって部分もあると思う」</p>
<p>丸本「大倉士門がまさにそうです。ファッションは普通だけど、しゃべりを含めたキャラクターが面白い奴。そういう誌面では伝えられないようなキャラクターをあえて集めて、ウェブを使った伝え方を考えました。WEGOの店頭とか、ブランドとかけ合わせたらどうなるんだろうって。ジェンダーレス男子って言葉を広めてたから勘違いされることがあったんですけど、WEGOの服は「ジェンダーレス男子」の服ではないんですよ。ようぢとかとまんとか、当時お金がなかった若い子たちが勝手にレディースとかメンズとか関係なくWEGOの服を選んでただけなんです。そのレディース化している様子から、ジェンダーレス男子だなと感じただけで」</p>
<p>米原「集めてきたときはみんな、ニートみたいな感じだったんだ？」</p>
<p>丸本「そうです。でも1年くらいで、こんどうようぢ、大倉士門、藤田富がツイキャスで人気になりました。それでも雑誌からは一切呼ばれないから、仕事がないって言い続けていたら当時の『CUTiE』編集長から、読モだけの雑誌作らない？ってお話をいただいて。でも僕としては『HR（高校生カルチャー雑誌）』に興味があって、そこに勝てるものにするのは難しいかなって思っていたから雑誌は作りたくなかったんです。その代わりに、こんどうようぢっていう面白いやつがいるから、そいつの本作ってみませんか？って言ったことが発端で『ようぢワールド』っていう本ができました。僕たちが連れてきた読モの初めての本」</p>
<p class="picture"></p>
<p>米原「ようぢくんの本の後に『N』っていうネオギャルの本を作ったんだよ。ネオギャルくると思ったんだけど、こなかったね（笑）。思い出した！  ネオギャルに対向する男子ってようぢくんだと思うよって伝えたときに『僕、ジェンダーレス男子って言葉考えたんで、絶対流行らせます！』って言ってたよね。言い続けないとだめだよ。誰かが勝手に作ったって思われるから（笑）」</p>
<p>丸本「初期のジェンダーレス男子は、ようぢ、とまん、Yapp!、ほりえりく、かじゅ魔でしたね」</p>
<p>米原「僕も『女性自身』でジャニーズJrの連載をスタートしたのが同じくらいの時期。なんかあの頃から男子ばっかり見ちゃうんだよね。『女性自身』で求められたのも、身近な距離感。アイドル的男子たちがいままで作ってきた手の届かない王子様じゃなくて、友達くらいの距離の表情。街で出会えるリアルな男の子たちっていうワードが結構重要だと思ってるよ」</p>
<p class="text" style="margin: 0 0 20px 0;text-align: center;font-weight: bold;font-size: 120%;display:block;">K-POPと原宿カルチャーの違いは？</p>
</p><p></p><p>The post 進化する原宿「ジェンダレス男子」のこれから first appeared on Numero TOKYO.</p></article>]]>
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